2012-05-13(Sun)
来日中のポゴレリチのファンの方たち、彼に興味を持っている方たちが、台湾の音楽評論家、焦元溥氏の『遊藝黒白』に収められているポゴレリチのインタビューの拙訳に反応してくださり、ブログのアクセス数が、この数日すごいことになっています。
それというのも、ポゴレリチのファン・サイトをやっている転妻よしこさんがブログでご紹介くださり・・・
http://blog.goo.ne.jp/rc1981rc/e/37ea1d3798652d899038548602a7d43d
http://blog.goo.ne.jp/rc1981rc/e/51f168044a04c3e59d946e1697977510
転妻さん、本当にごめんなさい。実はこの本、上海の音楽評論家の李厳歓(Li Yan-Huan)から一昨年の夏に貰って、すごくおもしろいから是非読んで! と言われていたのに、パラパラとめくって、ふーん、おもしろそうねと思いながら、本棚にしまっていたのです。
転妻さんが2007年に、このインタビューの存在をネットで知り、自動翻訳にかけて必死で読解していたというのに・・・
しかし、とにかく、このタイムリーな時期に何とか翻訳して発表できてよかったです。こんなに多くの方が読んでくださるとは思わず、不完全な翻訳を載せてしまったので、日本語の表現や用字・用語、人名などの不備に気づいて、後から少し修正しました
Twitterやコメントで、著者の焦元溥氏がまだ若いのに、ポゴレリチからこんなに深い内容の話を聞き出していることに驚嘆し、この人、ほかにはどんなピアニストにインタビューしているのですか? という質問がありましたので、本の目次を以下に掲載します。
『遊藝黒白 ~The Colors between Black and White~ 』
目次
[上巻]
第1章 フランスのピアニズム (French Piano School)
20世紀におけるフレンチ・ピアニズムの変遷 (The Transformation of French Piano School in 20th Century)
Roger Boutry (1932~ )
Theodore Paraskivesco (1940~)
Jacques Rouvier (1947~)
Jean-Philippe Collard (1948~)
Katia & Mariellle Labeque (1950~ ,1952~)
Jean-Francis Heisser (1950~)
Michel Beroff (1950~)
Pascal Roge (1951~)
Brigitte Engerer (1952~)
Pierre-Laurent Aimard (1957~)
Roger Muraro (1959~)
Jean-Yves Thibaudet (1961~)
Jean-Efflam Bavouzet (1962~ )
第2章 ロシアのピアニズム (Russian Piano School)
ロシアン・ピアニズムについての概論 (Blief Introductuon to the Russian School)
Naum Shtarkman (1927~2006)
Bella Davidovich (1928~)
Dmitri Bashkirov (1931~)
Vladimir Ashkenazy (1937~)
Oxana Yablonskaya (1938~)
Eliso Virsaladze (1942~)
Vladimir Krainev (1944~2011)
Elisabeth Leonskaja (1945~)
Mikhail Rudy (1953~)
Lilya Zilberstein (1965~)
Evgeny Kissin (1971~)
Nikolai Lugansky (1972~)
第3章 ヨーロッパのピアニスト (European Pianists)
Ivo Pogorelichi (1958~)
[下巻]
第3章 ヨーロッパのピアニスト(続き) (European Pianists)
Krystian Zimerman (1956~)
Gyorgy Sandor (1912~2005)
Tamas Vasary (1933~)
Gerhard Oppiz (1953~)
Lars Vogt (1970~)
Peter Donohoe (1952~)
Stephen Hough (1961~)
Leif Ove Andsnes (1970~)
第4章 アメリカのピアニスト (American Pianists)
Rosalyn Tureck (1914~2003)
Ruth Slenczynska (1925~)
Byron Janis (1928~)
Leon Fleisher (1928~)
Russell Sherman (1930~)
Martin Canin (1930~)
Stephen Kovacevich (1940~)
Robert Levin (1947~)
Garrick Ohlsson (1948~)
Cristina Ortiz (1950~)
第5章 アジアのピアニスト (Asian Pianists)
Fou Ts’ong (傅聡) (1934~)
Yin Cheng-Zong (殷承宗) (1941~)
Bobby Wang (王青雲) (1943~)
Kun Woo Paik (白建宇) (1946~)
Pi-Hsien Chen (陳必先) (1950~)
Dang Thai Son (鄧泰山) (1958~)
Gwhyneth Chen (陳毓襄) (1970~)
Ning An vs. Gloria Chien (安寧・簡佩盈) (1976~ / 1977~ )
Chun-Chieh Yen (厳俊傑) (1984~)
焦元溥氏は、これらのピアニストへのインタビューを通じて、20世紀から今日に至るピアノ音楽の系譜、演奏解釈について考察したいようで、どのインタビューも、きわめて興味深い内容が満載です。長くて読むのが大変なのですが・・・
台湾の音楽ジャーナリズム、恐るべしです。ご興味のあるピアニストがいましたら、コメント欄からリクエストしてください。時間はかかるかもしれませんが、いつか必ず翻訳してブログにアップします。
さて、この本の中で、1980年のショパン・コンクールの覇者ダン・タイソンは、ポゴレリチについて何か言っているのかな? と読んでみると、なかなかおもしろいことを語っています。ありゃ、りゃ、これは是非ポゴレリチ関係の方たちに読んでいただかなくては! と、書かなくてはいけない原稿もそっちのけで、一部分だけ翻訳いたしました
翻訳した部分の前には、彼の生い立ち、家族のこと、ベトナム戦争の戦渦の中でピアノを学んだ日々のことなどが語られ、翻訳した部分の後では、ソ連時代のモスクワ音楽院の状況、ナタンソンやバシュキーロフ、パリに行ってから師事したサンカンのレッスンについて語っています。
いずれ全文翻訳したいと思いますが、とりあえずポゴレリチに関係する部分を翻訳いたしました。

『遊藝黒白』(下巻)
第5章 アジアのピアニスト
ダン・タイソン (鄧泰山 Dang Thai Son 1958- )
・ ・・・
(焦): あなたはベトナムにいた頃から、ショパンが好きだったのですか?
(ダン): はい。これには、とてもおもしろい縁というか、巡り合わせがあるんです。山の中に疎開していた頃、楽譜もなく、レコードもなかったので、自分自身で模索して音楽を探究していたのですが、1970年に私の母がベトナムを代表してショパンコンクールに招かれました。そして、ワルシャワでたくさんの楽譜やレコードを買い求めて、持ち帰ったのです。それらは、私が初めてレコードで聴いた音楽です。しかも、1枚目に聴いたのは、アルゲリッチが演奏するショパンの「ピアノ協奏曲第1番」! 何て素晴らしい演奏 ! その魅力に惹きつけられ、我を忘れました。それから、母が買って来たショパン作品の楽譜を一生懸命練習しました。そのときから、ショパンへの敬愛の念が深まっていったのです。
(焦): 10年後に、あなたがショパンコンクールで優勝するなんて誰に想像できたでしょう! あのときのコンクールについて、お話しいただけますか? 当時、ソ連のピアニストがコンクールに参加するには、国内選抜を経なければならなかったのですよね。でも、あなたはベトナム人なのに、何故選抜オーディションを受けなければならなかったのですか?
(ダン): 私は外国人だったので、本来、選抜オーディションを受ける必要はなかったのですが、自分の実力を試すために受けました。もし通れば、自信を持ってコンクールに参加することができますから。モスクワ音楽院で、オーディションに通ったのは3人だけでした。私と、シェバノワ(Tatiana Shebanova,1953-2011 )、そしてポゴレリチです。
(焦): あなたは、もともとポゴレリチを知っていたのですか?
(ダン): もちろん知っていました。私たちは同級生だったというだけでなく、寄宿舎も同じ階だったのですから! 当時、ポゴレリチは、イタリアのカサグランデ国際コンクールとカナダのモントリオール国際コンクールで優勝し、学校の大スターでした。彼はとても特別で、12歳で中央音楽学校に入りました。ソ連の幼少年のエリートピアニストを教育する学校に、普通外国人は入れなかったのですが、彼はユーゴスラビア人だったため、入学を許可されたようです。彼は、ティマーキンのクラスで、プレトニョフと同級生で、彼らはとても仲がよく、いずれも素晴らしい技巧で切磋琢磨していました。彼はユーゴスラビア人なので、西欧のピアニストのレコードをたくさん持っていました。当時のソ連では、ロシアの音楽家以外のレコードはほとんど手に入らず、東欧の音楽家のレコードが少し手に入るだけでした。西側の音楽家では、ミケランジェリとグールド以外のレコードは、探すのは難しかったですね。しかし、ポゴレリチは帰国するたびに、たくさんの“珍しい”西側のレコードを持ち帰ったので、私たち同級生は彼に取り入って、それらの神秘的な録音を聴きたいと願いました。そういうわけで、彼は学生たちの間で人気者だったのです。最初の頃、彼は私にそれほど注意を払っていませんでした。どこか知らないところから来た外国人留学生という程度の認識だったと思います。私が選抜オーディションを通って、一緒にショパンコンクールに参加することになると、急に親しくなって、よく彼の部屋に招かれ、一緒に貴重な録音の数々を研究しました。今でも覚えているのは、アルゲリッチの演奏を聴いているとき、彼が頭を振りながら「僕は彼女よりもっと上手く弾ける!」と言ったことです。
(焦): 「彼よりも上手くない」ピアニストが、ショパンコンクールで彼のために大きな働きをしてくれるなんて、考えてもみなかったでしょうね! あのときのコンクールについて、話してください。あなたは、紆余曲折を経て参加したのですよね。
(ダン): ありとあらゆる辛苦を味わいました。まず最初に、ポーランドのコンクール事務局は私の参加を認めませんでした。というのは、あのときのコンクールは、録音審査や予選はなく、書類審査だけだったのです。私には何のキャリアも実績もありませんでしたからね! 私はショパンコンクールに参加する以前に、オーケストラとコンチェルトを弾いたこともなく、リサイタルを開いたこともありませんでした。私の推薦書類には、「ベトナムのハノイでピアノを学び、現在はモスクワ音楽院の学生」としか書いてなかったのですから、何の経歴もないということですよね? ですから、コンクールを主催している事務局は、本当は私を参加させたくなかったのですが、モスクワ音楽院で学んでいるということは、ある程度のレベルには達しているのかなと思い直してくれたようです。もうひとつの側面では、それまでショパンコンクールにベトナム人が参加したことがなかったので、ベトナム人にチャンスを与えてみようかということで、何とか参加が許可されました。
(焦): ソ連はあなたに資金面での援助をしましたか?
(ダン): ありません。あの頃、私はものすごく貧乏でした。自分で列車に乗って、モスクワからワルシャワに行ったのです。この列車の旅は、本当に長く苦しく大変でした! 列車から降りて、荷物を持ってホテルにたどり着いたときは、疲れ果てて死にそうでした。――幸いにも、ホテルとフィルハーモニアホールが近かったので助かりました。そうでなれば、またいろいろ大変だったでしょう。何しろ貧乏で、正式な演奏用の衣裳も持っていなかったのですから。1次予選、2次予選、セミファイナルでは、普段の服装で演奏したのですが、ファイナルでオーケストラとコンチェルトを演奏することになって、慌てました。礼服も持っていなくて、どうやってオーケストラと演奏するんだ! それは失礼なことだろう! と。24時間以内に何とか礼服を作ってもらって、ステージに立ちました。そういうわけで、あのときの私は「生まれたばかりの子牛は虎をも恐れない」という状態で、初めてコンクールに参加したので、緊張もせず、唯一あせりと心配を感じたのは、礼服が間に合うだろうかということだけでした!
(焦): コンクールでは、どんな曲目を弾いたのですか? イ短調のエチュード(作品25-4)を素晴らしいテクニックで弾いて人々を驚かせたと聞きましたが。
(ダン): 私は左利きだったので、あの左手が輝かしいテクニックを発揮して目まぐるしく移動するエチュードを選んだんですよ! ファイナルでは、『ピアノ協奏曲第2番』を選びました。これも、珍しいでしょう? 多くの人々は第1番を好みますから。第3回の優勝者は、第2番を選びましたね。
(焦): どうして第2番を選んだのですか? 第2番の方が、詩的な抒情にあふれているから?
(ダン): 違います! 第2番の方が短かったからです。私にはオーケストラと共演した経験がなかったでしょう? ですから、少しでも短い方が、ミスも少ないと思ったんですよ!
(焦): あのコンクールは、伝説的なコンクールですよね。あなたが、アジア人ピアニストとして初めて第1位を獲得し、ポゴレリチがアルゲリッチのおかげで有名になり、さらにあなたたちの同級生のシェバノワが第2位になりました。モスクワ音楽院の全面的な勝利です!
(ダン): あのとき、ポーランドの審査委員長はシェバノワを優勝させたかったようです。ポーランドはソ連を味方にしたかったのです。あのときの審査員のある一派はポゴレリチを推し、ほかの一派はシェバノワを押していて、誰も私について語る人はいませんでした。それにもかかわらず、最終的に私が優勝したわけですが…。シェバノワは素晴らしいピアニストです。彼女が生んだ天才的な息子もピアニストになりましたが、彼の成長に注目したいですね!
(焦): あなたの優勝には疑いの余地がないでしょう。第1位以外に、マズルカ賞、ポロネーズ賞、コンチェルト賞を獲得し、圧倒的な勝利をおさめたのですから!当時の議論について、あなたはどのように考えているのか興味があります。
(ダン): これだけしか言えないのですが…、アルゲリッチは、ポゴレリチにあれほどの才能があるのにファイナルに残らないのはおかしいと言ったのであって、ポゴレリチが優勝すべきとは言っていないのです。ファイナルは、まだ始まっていなくて、誰が優勝するかはわからなかったのですから! アルゲリッチとは、その後何度も会っていますが、その点についてはっきりと私に言っています。多くの人々が、アルゲリッチが私に敵対したと思っているようですが、それは大きな間違いで、彼女の人間性を誤解させるものです。あのときのショパンコンクールの結果が出た後、彼女はジュネーブからコンクール宛に、私の優勝を祝福する電報を送ってくれました。彼女は、彼女の考え方を明らかにしたわけで、私は永遠に彼女の善意を私の栄誉にしたいと思っています。実は、その後アルゲリッチのお母さんが、私をずいぶん助けてくれたんです。当時、パリでの演奏会の多くは、彼女が労をとって計画してくれました。現在に至るまで、アルゲリッチと私の間に何かあったと思う人がまだいるようですが――それは、大きな誤解です!
(焦): ポゴレリチはコンクールで、傑出したテクニックを示しただけでなく、きわめて個性的な音楽スタイルを繰り広げました。
(ダン): これも、ショパンコンクールでいつも議論されることです。ショパンコンクールというのは、ある作曲家の作品だけで競う唯一のコンクールで、ショパンを正確に解釈して自然に表現するということに重きが置かれています。抜群のテクニックと幅広いレパートリーを持っているピアニストでも、ショパンに合ったスタイルと解釈を表現できるとは限らないのです。ショパンコンクールは、素晴らしいピアニストを選びたいのでしょうか、それともショパンの専門家を選びたいのでしょうか? 両者を併せ持っていれば、もちろん一番いいのですが、両者が一致しない場合は、いつも議論になります。
(焦点): 当時DG(ドイツ・グラモフォン)は、あなたとポゴレリチのショパン・アルバムを出しましたが、その後あなたはDGとは仕事をしていませんね。
(ダン): あのとき、DGは私のアルバムを出したくなかったのです。彼らにとって、私はソ連にいるただのベトナム人で、私をどうやって売り出していいのかわからず、私には市場的価値はないと考えたようです。私が1枚のアルバムを出せたのは、ツィメルマンのおかげです。彼がDGに私を紹介し、彼のマネージャーを私に紹介してくれたのです。私はツィメルマンの親切に心から感謝しています。
(焦): ツィメルマンというのは凄い人ですね。
(ダン): 私が彼の家を訪ねていたとき、彼は急に思い立って、私をパリのルービンシュタインのところに連れて行くと言いました。残念なことに、その頃の私のベトナムのパスポートは西側の国に行くビザを取得するのに多くの審査が必要で、いろいろ大変だったのであきらめたのですが、これは私の人生における最も遺憾なことでした。ツィメルマンは、非常に聡明で厳格な人です。彼のように、あらゆる作曲家とそのスタイルについて精通し、理性と感性の完璧なバランスをとって、しかも輝くような技巧で演奏できるピアニストはいません。本当に非凡な人物です。
(焦): コンクールでの演奏と今日までの業績を考えると、あなたはショパンコンクールの優勝者の中の最後の「ショパン弾き」だと感服せざるをえません。コンクールの後、ポゴレリチと連絡はありましたか?
(焦): ありません。あのコンクールは、やはり彼にとって大きな打撃だったのでしょう。あのような結果は、受け入れ難かったのだと思います。彼は外面的には冷たい感じがしますが、親しい友人たちにはとても親切で、優しい人なのです。私たちは同級生でしたから、彼の冷たい態度に、当時の私は傷つきましたが、こんなふうに時が過ぎてみると、何ということはないですね。日々は過ぎ去り、コンクールが人生ではありません、ほんのひとときの出来事に過ぎないのです。
(焦): あなたはポゴレリチの演奏を、どう思いますか?
(ダン): ポゴレリチは、もちろん素晴らしいピアニストです。彼の音楽とテクニックは、きわめて特別です。それは、彼の先生、すなわち彼の妻のケゼラーゼから由来するものでしょう。ポゴレリチの音楽は深く豊かで、彼のタッチから生み出される音色も深く繊細です。彼の音楽は、“数字化(デジタル化?)”思考によって、すべての要素が彼の設計とコントロールの下で組み立てられ、遅い速度でも凝縮された音楽を維持しています。私たちが曲を勉強するとき、往々にしてとても速く学び、1、2週間で新しい曲を弾けるようにしたりします。しかし、ポゴレリチは、推敲に推敲を重ね、様々な音色、テクニック、フレーズを考え抜き、ひとつの曲に2、3カ月以上かけて、彼自身が満足するまでより多くの時間を費やして、幅広いレパートリーをつくっていました。これは、なかなか出来ることではありません。私は彼の演奏を高く評価しています。
(焦): ケゼラーゼは、当時有名だったのですか?
(ダン): ほとんど誰も知りませんでした! 当時、一部の学生が個人的に彼女の下で学んでいたようですが、真剣に彼女について学んでいる人は誰もいなかったと思います。彼女とポゴレリチが出会ったときの話を知っていますか? ポゴレリチは、それまで聴衆を掌の上で操るように、すべての人に彼の演奏は素晴らしいと言わせていましたが、あるパーティーで、ケゼラーゼが彼の演奏を聴いて、よくないところを指摘したのです。ポゴレリチは、ただちに彼女の教えで「醍醐を頂に注ぐ(知恵を授けて悟りを開かせる)」ように、突然すべてを悟って、彼女に師事することに決め、その後結婚したのです。
(焦): ロシアでは、学生と教師の間がとても密接なのですね。
(ダン): それがまさにロシアの伝統だと思います。教師は学生の面倒をよくみて、まるで家族のように扱い、多くの学生は教師の家に泊まったり、住みついたりします。私も現在、学生が私の家に来てレッスンをすると、いつも時間を延長してしまうんですが、これはロシアの伝統ですね。
・・・・・・

スラスラ翻訳できるといいんですが、これだけやるのにも、けっこう時間がかかってしまいました。
今日は母の日ですね
母と義母を誘って、フレンチ・レストランに行く予定です
嬉しい報告もあるので・・・。皆様も、よい1日になりますように。
それというのも、ポゴレリチのファン・サイトをやっている転妻よしこさんがブログでご紹介くださり・・・
http://blog.goo.ne.jp/rc1981rc/e/37ea1d3798652d899038548602a7d43d
http://blog.goo.ne.jp/rc1981rc/e/51f168044a04c3e59d946e1697977510
転妻さん、本当にごめんなさい。実はこの本、上海の音楽評論家の李厳歓(Li Yan-Huan)から一昨年の夏に貰って、すごくおもしろいから是非読んで! と言われていたのに、パラパラとめくって、ふーん、おもしろそうねと思いながら、本棚にしまっていたのです。
転妻さんが2007年に、このインタビューの存在をネットで知り、自動翻訳にかけて必死で読解していたというのに・・・

しかし、とにかく、このタイムリーな時期に何とか翻訳して発表できてよかったです。こんなに多くの方が読んでくださるとは思わず、不完全な翻訳を載せてしまったので、日本語の表現や用字・用語、人名などの不備に気づいて、後から少し修正しました

Twitterやコメントで、著者の焦元溥氏がまだ若いのに、ポゴレリチからこんなに深い内容の話を聞き出していることに驚嘆し、この人、ほかにはどんなピアニストにインタビューしているのですか? という質問がありましたので、本の目次を以下に掲載します。
『遊藝黒白 ~The Colors between Black and White~ 』
目次
[上巻]
第1章 フランスのピアニズム (French Piano School)
20世紀におけるフレンチ・ピアニズムの変遷 (The Transformation of French Piano School in 20th Century)
Roger Boutry (1932~ )
Theodore Paraskivesco (1940~)
Jacques Rouvier (1947~)
Jean-Philippe Collard (1948~)
Katia & Mariellle Labeque (1950~ ,1952~)
Jean-Francis Heisser (1950~)
Michel Beroff (1950~)
Pascal Roge (1951~)
Brigitte Engerer (1952~)
Pierre-Laurent Aimard (1957~)
Roger Muraro (1959~)
Jean-Yves Thibaudet (1961~)
Jean-Efflam Bavouzet (1962~ )
第2章 ロシアのピアニズム (Russian Piano School)
ロシアン・ピアニズムについての概論 (Blief Introductuon to the Russian School)
Naum Shtarkman (1927~2006)
Bella Davidovich (1928~)
Dmitri Bashkirov (1931~)
Vladimir Ashkenazy (1937~)
Oxana Yablonskaya (1938~)
Eliso Virsaladze (1942~)
Vladimir Krainev (1944~2011)
Elisabeth Leonskaja (1945~)
Mikhail Rudy (1953~)
Lilya Zilberstein (1965~)
Evgeny Kissin (1971~)
Nikolai Lugansky (1972~)
第3章 ヨーロッパのピアニスト (European Pianists)
Ivo Pogorelichi (1958~)
[下巻]
第3章 ヨーロッパのピアニスト(続き) (European Pianists)
Krystian Zimerman (1956~)
Gyorgy Sandor (1912~2005)
Tamas Vasary (1933~)
Gerhard Oppiz (1953~)
Lars Vogt (1970~)
Peter Donohoe (1952~)
Stephen Hough (1961~)
Leif Ove Andsnes (1970~)
第4章 アメリカのピアニスト (American Pianists)
Rosalyn Tureck (1914~2003)
Ruth Slenczynska (1925~)
Byron Janis (1928~)
Leon Fleisher (1928~)
Russell Sherman (1930~)
Martin Canin (1930~)
Stephen Kovacevich (1940~)
Robert Levin (1947~)
Garrick Ohlsson (1948~)
Cristina Ortiz (1950~)
第5章 アジアのピアニスト (Asian Pianists)
Fou Ts’ong (傅聡) (1934~)
Yin Cheng-Zong (殷承宗) (1941~)
Bobby Wang (王青雲) (1943~)
Kun Woo Paik (白建宇) (1946~)
Pi-Hsien Chen (陳必先) (1950~)
Dang Thai Son (鄧泰山) (1958~)
Gwhyneth Chen (陳毓襄) (1970~)
Ning An vs. Gloria Chien (安寧・簡佩盈) (1976~ / 1977~ )
Chun-Chieh Yen (厳俊傑) (1984~)
焦元溥氏は、これらのピアニストへのインタビューを通じて、20世紀から今日に至るピアノ音楽の系譜、演奏解釈について考察したいようで、どのインタビューも、きわめて興味深い内容が満載です。長くて読むのが大変なのですが・・・

台湾の音楽ジャーナリズム、恐るべしです。ご興味のあるピアニストがいましたら、コメント欄からリクエストしてください。時間はかかるかもしれませんが、いつか必ず翻訳してブログにアップします。
さて、この本の中で、1980年のショパン・コンクールの覇者ダン・タイソンは、ポゴレリチについて何か言っているのかな? と読んでみると、なかなかおもしろいことを語っています。ありゃ、りゃ、これは是非ポゴレリチ関係の方たちに読んでいただかなくては! と、書かなくてはいけない原稿もそっちのけで、一部分だけ翻訳いたしました

翻訳した部分の前には、彼の生い立ち、家族のこと、ベトナム戦争の戦渦の中でピアノを学んだ日々のことなどが語られ、翻訳した部分の後では、ソ連時代のモスクワ音楽院の状況、ナタンソンやバシュキーロフ、パリに行ってから師事したサンカンのレッスンについて語っています。
いずれ全文翻訳したいと思いますが、とりあえずポゴレリチに関係する部分を翻訳いたしました。

『遊藝黒白』(下巻)
第5章 アジアのピアニスト
ダン・タイソン (鄧泰山 Dang Thai Son 1958- )
・ ・・・
(焦): あなたはベトナムにいた頃から、ショパンが好きだったのですか?
(ダン): はい。これには、とてもおもしろい縁というか、巡り合わせがあるんです。山の中に疎開していた頃、楽譜もなく、レコードもなかったので、自分自身で模索して音楽を探究していたのですが、1970年に私の母がベトナムを代表してショパンコンクールに招かれました。そして、ワルシャワでたくさんの楽譜やレコードを買い求めて、持ち帰ったのです。それらは、私が初めてレコードで聴いた音楽です。しかも、1枚目に聴いたのは、アルゲリッチが演奏するショパンの「ピアノ協奏曲第1番」! 何て素晴らしい演奏 ! その魅力に惹きつけられ、我を忘れました。それから、母が買って来たショパン作品の楽譜を一生懸命練習しました。そのときから、ショパンへの敬愛の念が深まっていったのです。
(焦): 10年後に、あなたがショパンコンクールで優勝するなんて誰に想像できたでしょう! あのときのコンクールについて、お話しいただけますか? 当時、ソ連のピアニストがコンクールに参加するには、国内選抜を経なければならなかったのですよね。でも、あなたはベトナム人なのに、何故選抜オーディションを受けなければならなかったのですか?
(ダン): 私は外国人だったので、本来、選抜オーディションを受ける必要はなかったのですが、自分の実力を試すために受けました。もし通れば、自信を持ってコンクールに参加することができますから。モスクワ音楽院で、オーディションに通ったのは3人だけでした。私と、シェバノワ(Tatiana Shebanova,1953-2011 )、そしてポゴレリチです。
(焦): あなたは、もともとポゴレリチを知っていたのですか?
(ダン): もちろん知っていました。私たちは同級生だったというだけでなく、寄宿舎も同じ階だったのですから! 当時、ポゴレリチは、イタリアのカサグランデ国際コンクールとカナダのモントリオール国際コンクールで優勝し、学校の大スターでした。彼はとても特別で、12歳で中央音楽学校に入りました。ソ連の幼少年のエリートピアニストを教育する学校に、普通外国人は入れなかったのですが、彼はユーゴスラビア人だったため、入学を許可されたようです。彼は、ティマーキンのクラスで、プレトニョフと同級生で、彼らはとても仲がよく、いずれも素晴らしい技巧で切磋琢磨していました。彼はユーゴスラビア人なので、西欧のピアニストのレコードをたくさん持っていました。当時のソ連では、ロシアの音楽家以外のレコードはほとんど手に入らず、東欧の音楽家のレコードが少し手に入るだけでした。西側の音楽家では、ミケランジェリとグールド以外のレコードは、探すのは難しかったですね。しかし、ポゴレリチは帰国するたびに、たくさんの“珍しい”西側のレコードを持ち帰ったので、私たち同級生は彼に取り入って、それらの神秘的な録音を聴きたいと願いました。そういうわけで、彼は学生たちの間で人気者だったのです。最初の頃、彼は私にそれほど注意を払っていませんでした。どこか知らないところから来た外国人留学生という程度の認識だったと思います。私が選抜オーディションを通って、一緒にショパンコンクールに参加することになると、急に親しくなって、よく彼の部屋に招かれ、一緒に貴重な録音の数々を研究しました。今でも覚えているのは、アルゲリッチの演奏を聴いているとき、彼が頭を振りながら「僕は彼女よりもっと上手く弾ける!」と言ったことです。
(焦): 「彼よりも上手くない」ピアニストが、ショパンコンクールで彼のために大きな働きをしてくれるなんて、考えてもみなかったでしょうね! あのときのコンクールについて、話してください。あなたは、紆余曲折を経て参加したのですよね。
(ダン): ありとあらゆる辛苦を味わいました。まず最初に、ポーランドのコンクール事務局は私の参加を認めませんでした。というのは、あのときのコンクールは、録音審査や予選はなく、書類審査だけだったのです。私には何のキャリアも実績もありませんでしたからね! 私はショパンコンクールに参加する以前に、オーケストラとコンチェルトを弾いたこともなく、リサイタルを開いたこともありませんでした。私の推薦書類には、「ベトナムのハノイでピアノを学び、現在はモスクワ音楽院の学生」としか書いてなかったのですから、何の経歴もないということですよね? ですから、コンクールを主催している事務局は、本当は私を参加させたくなかったのですが、モスクワ音楽院で学んでいるということは、ある程度のレベルには達しているのかなと思い直してくれたようです。もうひとつの側面では、それまでショパンコンクールにベトナム人が参加したことがなかったので、ベトナム人にチャンスを与えてみようかということで、何とか参加が許可されました。
(焦): ソ連はあなたに資金面での援助をしましたか?
(ダン): ありません。あの頃、私はものすごく貧乏でした。自分で列車に乗って、モスクワからワルシャワに行ったのです。この列車の旅は、本当に長く苦しく大変でした! 列車から降りて、荷物を持ってホテルにたどり着いたときは、疲れ果てて死にそうでした。――幸いにも、ホテルとフィルハーモニアホールが近かったので助かりました。そうでなれば、またいろいろ大変だったでしょう。何しろ貧乏で、正式な演奏用の衣裳も持っていなかったのですから。1次予選、2次予選、セミファイナルでは、普段の服装で演奏したのですが、ファイナルでオーケストラとコンチェルトを演奏することになって、慌てました。礼服も持っていなくて、どうやってオーケストラと演奏するんだ! それは失礼なことだろう! と。24時間以内に何とか礼服を作ってもらって、ステージに立ちました。そういうわけで、あのときの私は「生まれたばかりの子牛は虎をも恐れない」という状態で、初めてコンクールに参加したので、緊張もせず、唯一あせりと心配を感じたのは、礼服が間に合うだろうかということだけでした!
(焦): コンクールでは、どんな曲目を弾いたのですか? イ短調のエチュード(作品25-4)を素晴らしいテクニックで弾いて人々を驚かせたと聞きましたが。
(ダン): 私は左利きだったので、あの左手が輝かしいテクニックを発揮して目まぐるしく移動するエチュードを選んだんですよ! ファイナルでは、『ピアノ協奏曲第2番』を選びました。これも、珍しいでしょう? 多くの人々は第1番を好みますから。第3回の優勝者は、第2番を選びましたね。
(焦): どうして第2番を選んだのですか? 第2番の方が、詩的な抒情にあふれているから?
(ダン): 違います! 第2番の方が短かったからです。私にはオーケストラと共演した経験がなかったでしょう? ですから、少しでも短い方が、ミスも少ないと思ったんですよ!
(焦): あのコンクールは、伝説的なコンクールですよね。あなたが、アジア人ピアニストとして初めて第1位を獲得し、ポゴレリチがアルゲリッチのおかげで有名になり、さらにあなたたちの同級生のシェバノワが第2位になりました。モスクワ音楽院の全面的な勝利です!
(ダン): あのとき、ポーランドの審査委員長はシェバノワを優勝させたかったようです。ポーランドはソ連を味方にしたかったのです。あのときの審査員のある一派はポゴレリチを推し、ほかの一派はシェバノワを押していて、誰も私について語る人はいませんでした。それにもかかわらず、最終的に私が優勝したわけですが…。シェバノワは素晴らしいピアニストです。彼女が生んだ天才的な息子もピアニストになりましたが、彼の成長に注目したいですね!
(焦): あなたの優勝には疑いの余地がないでしょう。第1位以外に、マズルカ賞、ポロネーズ賞、コンチェルト賞を獲得し、圧倒的な勝利をおさめたのですから!当時の議論について、あなたはどのように考えているのか興味があります。
(ダン): これだけしか言えないのですが…、アルゲリッチは、ポゴレリチにあれほどの才能があるのにファイナルに残らないのはおかしいと言ったのであって、ポゴレリチが優勝すべきとは言っていないのです。ファイナルは、まだ始まっていなくて、誰が優勝するかはわからなかったのですから! アルゲリッチとは、その後何度も会っていますが、その点についてはっきりと私に言っています。多くの人々が、アルゲリッチが私に敵対したと思っているようですが、それは大きな間違いで、彼女の人間性を誤解させるものです。あのときのショパンコンクールの結果が出た後、彼女はジュネーブからコンクール宛に、私の優勝を祝福する電報を送ってくれました。彼女は、彼女の考え方を明らかにしたわけで、私は永遠に彼女の善意を私の栄誉にしたいと思っています。実は、その後アルゲリッチのお母さんが、私をずいぶん助けてくれたんです。当時、パリでの演奏会の多くは、彼女が労をとって計画してくれました。現在に至るまで、アルゲリッチと私の間に何かあったと思う人がまだいるようですが――それは、大きな誤解です!
(焦): ポゴレリチはコンクールで、傑出したテクニックを示しただけでなく、きわめて個性的な音楽スタイルを繰り広げました。
(ダン): これも、ショパンコンクールでいつも議論されることです。ショパンコンクールというのは、ある作曲家の作品だけで競う唯一のコンクールで、ショパンを正確に解釈して自然に表現するということに重きが置かれています。抜群のテクニックと幅広いレパートリーを持っているピアニストでも、ショパンに合ったスタイルと解釈を表現できるとは限らないのです。ショパンコンクールは、素晴らしいピアニストを選びたいのでしょうか、それともショパンの専門家を選びたいのでしょうか? 両者を併せ持っていれば、もちろん一番いいのですが、両者が一致しない場合は、いつも議論になります。
(焦点): 当時DG(ドイツ・グラモフォン)は、あなたとポゴレリチのショパン・アルバムを出しましたが、その後あなたはDGとは仕事をしていませんね。
(ダン): あのとき、DGは私のアルバムを出したくなかったのです。彼らにとって、私はソ連にいるただのベトナム人で、私をどうやって売り出していいのかわからず、私には市場的価値はないと考えたようです。私が1枚のアルバムを出せたのは、ツィメルマンのおかげです。彼がDGに私を紹介し、彼のマネージャーを私に紹介してくれたのです。私はツィメルマンの親切に心から感謝しています。
(焦): ツィメルマンというのは凄い人ですね。
(ダン): 私が彼の家を訪ねていたとき、彼は急に思い立って、私をパリのルービンシュタインのところに連れて行くと言いました。残念なことに、その頃の私のベトナムのパスポートは西側の国に行くビザを取得するのに多くの審査が必要で、いろいろ大変だったのであきらめたのですが、これは私の人生における最も遺憾なことでした。ツィメルマンは、非常に聡明で厳格な人です。彼のように、あらゆる作曲家とそのスタイルについて精通し、理性と感性の完璧なバランスをとって、しかも輝くような技巧で演奏できるピアニストはいません。本当に非凡な人物です。
(焦): コンクールでの演奏と今日までの業績を考えると、あなたはショパンコンクールの優勝者の中の最後の「ショパン弾き」だと感服せざるをえません。コンクールの後、ポゴレリチと連絡はありましたか?
(焦): ありません。あのコンクールは、やはり彼にとって大きな打撃だったのでしょう。あのような結果は、受け入れ難かったのだと思います。彼は外面的には冷たい感じがしますが、親しい友人たちにはとても親切で、優しい人なのです。私たちは同級生でしたから、彼の冷たい態度に、当時の私は傷つきましたが、こんなふうに時が過ぎてみると、何ということはないですね。日々は過ぎ去り、コンクールが人生ではありません、ほんのひとときの出来事に過ぎないのです。
(焦): あなたはポゴレリチの演奏を、どう思いますか?
(ダン): ポゴレリチは、もちろん素晴らしいピアニストです。彼の音楽とテクニックは、きわめて特別です。それは、彼の先生、すなわち彼の妻のケゼラーゼから由来するものでしょう。ポゴレリチの音楽は深く豊かで、彼のタッチから生み出される音色も深く繊細です。彼の音楽は、“数字化(デジタル化?)”思考によって、すべての要素が彼の設計とコントロールの下で組み立てられ、遅い速度でも凝縮された音楽を維持しています。私たちが曲を勉強するとき、往々にしてとても速く学び、1、2週間で新しい曲を弾けるようにしたりします。しかし、ポゴレリチは、推敲に推敲を重ね、様々な音色、テクニック、フレーズを考え抜き、ひとつの曲に2、3カ月以上かけて、彼自身が満足するまでより多くの時間を費やして、幅広いレパートリーをつくっていました。これは、なかなか出来ることではありません。私は彼の演奏を高く評価しています。
(焦): ケゼラーゼは、当時有名だったのですか?
(ダン): ほとんど誰も知りませんでした! 当時、一部の学生が個人的に彼女の下で学んでいたようですが、真剣に彼女について学んでいる人は誰もいなかったと思います。彼女とポゴレリチが出会ったときの話を知っていますか? ポゴレリチは、それまで聴衆を掌の上で操るように、すべての人に彼の演奏は素晴らしいと言わせていましたが、あるパーティーで、ケゼラーゼが彼の演奏を聴いて、よくないところを指摘したのです。ポゴレリチは、ただちに彼女の教えで「醍醐を頂に注ぐ(知恵を授けて悟りを開かせる)」ように、突然すべてを悟って、彼女に師事することに決め、その後結婚したのです。
(焦): ロシアでは、学生と教師の間がとても密接なのですね。
(ダン): それがまさにロシアの伝統だと思います。教師は学生の面倒をよくみて、まるで家族のように扱い、多くの学生は教師の家に泊まったり、住みついたりします。私も現在、学生が私の家に来てレッスンをすると、いつも時間を延長してしまうんですが、これはロシアの伝統ですね。
・・・・・・

スラスラ翻訳できるといいんですが、これだけやるのにも、けっこう時間がかかってしまいました。
今日は母の日ですね
母と義母を誘って、フレンチ・レストランに行く予定です
嬉しい報告もあるので・・・。皆様も、よい1日になりますように。
2012-05-10(Thu)
あれこれ忙しく、ご無沙汰いたしておりました
ゴールデン・ウィークは、取材、原稿書きなどに追われながら、幾つか演奏会に足を運び、LFJのコンサートも少しだけ聴きました。美味しいものもいっぱい食べ、とっても嬉しいこともあり、それやこれやあらためて書きたいと思いますが、今日は、来日中のイーヴォ・ポゴレリチの演奏が話題になっているので、台湾の音楽評論家、焦元溥(Jiao YuanPu)氏が世界各国のピアニストのインタビューした記録をまとめた『遊藝黒白(The Colors between Black and White) 』の中の、ポゴレリチの項を翻訳してみました。

焦元溥氏は、1978年、台北市生まれの音楽評論家。台湾大学で政治学(国際関係論)を学んだ後、アメリカ(The Fletcher School , Tufis University )で法律と外交の修士課程を修め、さらにイギリス(King's College , University of London) で音楽学を学んだ俊才です。15歳から、台湾、香港、中国の様々な音楽雑誌に寄稿し、現在は音楽評論家として活躍しています。
2010年に生活・読書・新知 三聯書店から出版された『遊藝黒白』(上・下)には、世界各国のピアニストへのインタビューが掲載されていて、日本の音楽ジャーナリズムとは違う視点のQ&Aを、興味深く読んでいたのですが、その中のポゴレリチの項を翻訳してみました。

遊藝黒白 ~The Colors between Black and White~
焦 元溥 著
第3章 欧州のピアニスト
Ivo Pogorelichi (1958~ )
1958年旧ユーゴスラビアに生まれ、11歳でモスクワ中央音楽学校でエフゲニー・ティマーキン氏に師事した後、モスクワ音楽院でアリス・ケゼラーゼ女史に出会い、共にリストの弟子シロティの解釈について研究し、ついに女史を生涯の伴侶としたことが、美談として伝えられている。
1978年イタリアのカサグランデ国際コンクール第1位、2年後のモントリオール国際コンクール第1位、1980年10月にポーランドのワルシャワで開催されたショパン国際コンクールでファイナルに進めなかったことに、マルタ・アルゲリッチが抗議して審査員を辞したことで一躍注目を集める。1981年、ニューヨーク・カーネギーホールでのデビューリサイタルで大きな成功をおさめ、国際的に高い評価を受けて以来、世界中の大きな舞台で活躍している。演奏活動以外に、慈善事業にも熱心で、1988年にユネスコの親善大使に任命され、1992年にはクロアチア政府から「文化大使」に任命されている。
焦元溥 (焦) : まず、あなたが育った家庭についてお話いただけますか?
ポゴレリチ (ポ) : 私の父はクロアチア人です。父は音楽が大好きだったのですが、祖父が保守的な人物で、音楽家ではなく、法律家のような社会的地位の高い職業に就かせたいと思ったようです。ちょうど第2次世界大戦が始まって、父は故郷を離れてドイツ軍と戦ったこともあり、音楽を正規に学びたいと思ったときは、すでに遅かったということです。とても残念なことですが、それでも父は、コントラバスやサックスを上手に演奏していました。母はセルビア人で、私の家は地主として農業経営で生計を立てていました。
(焦) : あなたは、小さい頃から天才を発揮し、9歳のときにテレビ番組で演奏したのですよね。
(ポ) : そして、人々が私の演奏についてあれこれ評論し始めました。私はそれがすごく嫌だったし、ほかの子どもたちが毎日楽しく遊んでいるのに、家に引きこもってピアノの練習をしなければならないことも嫌でした。でも、それが私の運命だとあきらめていました。これは私の運命だとしか言いようがないと! 祖父の私に対する影響が大きかったことも、お話しなければなりません。彼は高い知性を持った人で、8種類の言語が話せました。彼は、毎日違う言語の新聞を読んでいました。ある日はドイツ語、ある日はイタリア語、ある日はフランス語というように、一週間毎日変えて、頭の中の言語能力を鍛えていたのです。そして、彼の言語能力が私の父を救いました。父が16歳のときにナチスに捕えられ、死刑を言い渡されたとき、祖父が流暢なドイツ語で救命のために走り回り、幸いにも父は一命をとりとめたのです。私は4歳のときから、祖父に文字を習い、勉強を始めました。それも、クロアチア語とセルビア語を同時にです。父が仕事に出かけている間は、祖父が私の面倒をみていました。高い知性を持ったインテリの祖父の教育を受けて、私の発達は早く、学校に入ったときには、あきらかにほかの子どもたちより進んでいたので、時間やエネルギーを音楽に使うことができました。当時私の父は、私に総合的な音楽教育を施したいと思っていたようで、ヴァイオリンも習わされたのですが……、どうか勘弁して! それはピアノを弾くよりもっと嫌なことでした。その頃の私は、まったく何もわかっていなくて、どうして片方の手で指板を押さえ、もう片方の手で弓を持って弦をのこぎり引きしなければならないのかわからなかったのです。おまけに、ヴァイオリンの先生はヘビー・スモーカーで、レッスン室には煙草の臭いがたちこめていました。それで、先生がヴァイオリンかピアノかどちらを究めるのか選びなさいと言ったとき、私は迷わずピアノを選びました。
(焦) : あなたはどうしてソ連に行って学ぶことになったのですか?
(ポ) : ロシアのある先生がユーゴスラヴィアでマスタークラスを開き、私と何人かの学生が彼に演奏を聴かせました。その後、彼は私の両親に、私にはとても才能があり、モスクワのような音楽文化の高い所で真剣にピアノ演奏を学ぶべきだと伝えました。慎重に考えた結果、母は私がモスクワに行くことを決めました。それで私は1970年にモスクワに行き、入学試験を受けて中央音楽学校に入り、ティマーキンの下で学びましたが、このとき、私は大きな衝撃を受けました。ユーゴスラヴィアでは、私のピアノ演奏はなかなかなものだったのですが、モスクワに来てみると、クラスの誰もが私より上手く弾くことに気づいたのです。私は小さい頃からとても向上心が強かったので、この状態に気づくと優れた友人たちを目指して一段と猛練習に励み、同級生のレベルに追い付き、やがて追い越しました。私はここで5年間学び、後にモスクワ音楽院に進みました。
(焦): あなたはソ連の学校システムの中で、ネイガウスとイグームノフに師事した教師の下で学んでいますが、いわゆる「ロシアン・ピアニズム(ロシアピアノ楽派)」を、どのように見ていますか?
(ポ): 私の受けたテクニックの訓練は、いわゆる「ロシアピアノ楽派」のそれとは大きな違いがあります。実は、私はネイガウス等の人たちを「ソ連楽派」と呼んでいますが、これは既にソ連の時代になっていたからです。私自身のテクニックは妻のアリス・ケゼラーゼ(Alice Kezeradze)に由来するもので、これはベートーベン、リスト系統の楽派で、帝政ロシア時代はサンクトペテルブルグに根を生やしていて、やはり「ロシアピアノ楽派」に属します。もちろん、ティマーキンは、イグームノフもかつてリストの伝統を学んだと私に言いましたが、音楽のとらえ方はサンクトペテルブルグ楽派とは違っていて、ケゼラーゼが私に教えたのは、きわめて純粋なサンクトペテルブルグ楽派のものだったので、私には両派の違いがわかります。
(焦): サンクトペテルブルグを「ロシアピアノ楽派」の中心と紹介してもいいでしょうか? また、この楽派はケゼラーゼ夫人の故郷のグルジアにどのようにして伝わったのでしょうか?
(ポ): ピョートル大帝がサンクトペテルブルグの建設を開始して以来、ロマノフ王朝はひたすら西欧文化を学ぼうとしました。ロシア帝国は西欧の傑出した人材をサンクトペテルブルグに招くために力を尽くし、ヨーロッパ文化の精華を学ぼうとしました。そのような状況の中で、レシェティツキがペテルブルグで教えることになりました。彼と彼の生徒でもあった妻のエシポワが、ペテルブルグにおいて非常に優れた、そして厳格な教育システムをつくり上げました。後にルービンシュタイン兄弟の助けを受けて、兄アントンはサンクトペテルブルグ音楽院、弟ニコラスはモスクワ音楽院をつくりました。ケゼラーゼの先生のNina Pleshtcheyeva は、グルジア生まれの非常に優れたピアニストで、選ばれて特別教育を受けた天才的な音楽家でした。彼女は幸運にもシロティについて学ぶことができました。シロティはラフマニノフの母方の従兄弟です。彼はラフマニノフより幸運で、晩年のリストについて学び、より良い教育を受けることができました。Pleshtcheyeva はサンクトペテルブルグ音楽院できわめて優れていたため、卒業後、引き留められて教師を務めました。彼女はレーヴィン夫人の非常に良い友人であるとともに、グラズノフ院長の恋人でもありました。
「十月革命」後の政治状況の悪化により、彼女は仕事を失い、サンクトペテルブルグに留まることができず、やがてグルジアに戻り、若いピアニストを教えることになりました。ソ連が成立してからは、サンクトペテルブルグはレニングラードと名前を変え、その重要性が低下しました。これはすべての資源が首都モスクワに移動したからです。しかし、サンクトペテルブルグの音楽教育と「ロシアピアノ楽派」は、むしろグルジアで保存されました。Pleshtcheyeva 以外に、グルジアのピアノ教育におけるもう一人の重要人物はアナスタシア・ヴィルサラーゼで、現在有名なピアニストのエリソ・ヴィルサラーゼの祖母で、彼女もエシポワの弟子でした。
(焦): 「リスト-シロティ」の楽派には、どのような特色がありますか?
(ポ): 「リスト―シロティ」楽派を語る前に、「ベートーベン―リスト」楽派について先ず考えなければなりません。なぜベートーベンなのでしょうか? ベートーベンはピアノの巨匠であるとともに、他の楽器も演奏できました。彼は幅広い趣味を持つ作曲家であり、ピアノ音楽をつくるだけでなく、交響曲をつくることもできました。さらに、交響曲の発展のために、革命的な道筋をつくりました。ベートーベンは歌手の伴奏も好きで、声楽への愛好は、ピアノソナタの次々に現れては尽きることのないアリアやアリエッタに反映されています。リストは、ベートーベンのピアノ芸術の最もすぐれた部分を学びました。リストの人生は次の三段階に分けられます:第一段階、超絶技巧のピアノの神童。第二段階、ダグー夫人(Marie d'Agoult,1805-1876)と同居。ダグー夫人は作家であるとともに、ピアノを巧みに演奏し、リストとの間に3人の子供をつくりました。第三段階、リストはワイマールに住み、後進を教えました。シロティは幸運にも、晩年のリストについて3年間学ぶことができました。これはリストが最も経験を積み、そして最も創造力のあった時期でした。リストは一生を通じ、ピアノのテクニックの発展に尽くしました。12曲の《超絶技巧練習曲》(etudes d'execution transcendante)について言うと、私はこの曲の1839年版手稿をマジョルカ島のショパン博物館で見たことがあります(WIKIPEDIAでは、超絶技巧練習曲は1826年に初稿出版、1837年に改訂版出版、1840年にマゼッパを改作、1852年に第3稿を出版。現在最も多く演奏されるのは第3稿)。演奏者に仏陀のような手がなければ、この作品を弾けないと私は思います。しかし、たとえ1839年版があまりに複雑だとしても、私たちは、この若く、並外れた天才的芸術家が、いかにピアノ奏法に管弦楽的効果を生み出したかを鑑賞することができます。私たちが現在知っているのは、1852年版で、これは1839年版の簡略版です。しかし、この簡略化の過程で、リストは豊かなピアノ技法を発展させました。これには、手の形や移動テクニックを含み、とくに後者はベートーベンの作品から学び取ったものです。
(焦): 「移動テクニック」とは何ですか?
(ポ): ベートーベンは主に弦楽器の演奏経験からこのテクニックを学びました。特にチェロの演奏経験からです。チェロを演奏する時、左手は自然になめらかに位置を換えなければなりません。ベートーベンはこの経験から、右手の位置を保ちながら、同時に左手をうまく頻繁に移動させることを学び、そのテクニックをピアノ演奏に使いました。ピアニストとして、また作曲家として、リストのピアノ芸術の主要テーマは、管弦楽的で、声楽的なピアノ演奏の追及にあります。ベートーベンの移動テクニックと融合することにより、リストは左手を右手同様に重要なものに変え、右手と同様にメロディーラインと管弦楽的効果を表現させることができるようにしたのです。このような左手のテクニックは、リスト・スタイルのピアノ演奏の基礎をかたちづくり、リストはあらゆる可能な音色と音色のグラデーション、ペダリングのテクニックを要求しました。これはまさに、リストが晩年にますますベートーベンの音楽に近づくとともに、ベートーベンの作品を常に演奏した理由です。
(焦): しかし、リストはベートーベンの弟子のチェルニーに師事したのではないですか? チェルニーのテクニックはやはり伝統的なもので、指の移動の点では水平面の鍵盤テクニックを重視しています。これはリストとかなり大きな違いがあります。
(ポ): リストは物事を捨て去ることができない芸術家で、いつもできる限り多くのものを吸収しようとしました。彼はチェルニーの最も優れたテクニックを吸収しました。これは完璧な指のテクニックです。彼の《三つの演奏会用練習曲》(Trois eudes de Concert)はチェルニーの影響とテクニックを反映しており、リストがすでにそれを自分の音楽言語とテクニックに転化していることを示しています。このほか、リストがいつも旅をする芸術家であり、常に見聞きしたことから学んでいたことを強調しなければなりません。実際、この時代の多くの作曲家は、皆そんな生活でした。彼らの作品は、民族音楽と各地の言語の影響を受けています。昔の旅行は現在と比べ、はるかにゆっくりとしていて、人々は旅行した場所でしばらく生活し、土地の言葉を学んだりしたものです。このような生活経験は彼らの音楽を豊かにしました。ショパンの作品に、スペインとポーランドの影響があるように……。
(焦): スペインの影響もあるのですか?
(ポ): もちろんです。最近の研究が示していますが、ジョルジュ・サンド(George Sand,1804-1876)は素晴らしいスペイン語を書き、スペイン語で文章を発表もしています。ショパンとジョルジュ・サンドはスペイン語を話すことができました。これはスペイン語が当時のフランス貴族の言葉だったからです。皇室や貴族のような人達は召使に彼らの会話の内容を知られたくなかったので、スペイン語を話しました。ロシアやドイツの貴族がフランス語を話したのと同じです。私たちは作曲家が旅行中に見聞を広めるとともに言語を学んだことをしっかりと心に留めておかなければなりません。そうすれば、彼らの作品の中にさまざまなモチーフを見つけることができます。私たちはプロコフィエフの《ピアノコンチェルト第2番》にジャズを聴き取ることができます。これは不思議でしょうか? 不思議なことはありません。これは、プロコフィエフがかつてアメリカを巡回して演奏したことがあるからです。また、ラフマニノフのピアノコンチェルトにもジャズを聴き取ることができます。プロコフィエフの《ピアノコンチェル第3番》には黒海のモチーフがありますが、これは彼がグルジアに行ったことがあるからです。バルトークは、様々な民族音楽を彼の作品に活かしていますが、ベートーベンやシューベルトも同様です。つまり、人々が各地を訪れて異国情緒とその国の最高のものを楽しんだ時代だったのです。ヴェネチアがかつて中国の絹織物と茶葉に狂奔したことを思い出してください。この時代の人達の好奇心が、我々よりはるかに勝っていたことに思い至ることは難しくありません。
(焦): リストの下で学んだピアニストは多いのですが、なぜ彼のたくさんのドイツの弟子が彼の特殊なテクニックを学ばなかったのでしょうか?
(ポ): 芸術は、政治的動乱の中ではうまく発展しません。リストがワイマールにいた頃、ドイツはまさに統一の途上にあり、戦争が止むことはありませんでした。幸いに、リストは国際的な人物だったので、各地から学生が引き寄せられて来て、彼の下で学びました。この中に、シロティもいました。そして、シロティは非常に真面目にリストの下で学びました。しかし、シロティがロシアに戻ってから、第一次世界大戦と「十月革命」がすべてを破壊してしまいました。Pleshtcheyevaが、なぜサンクトペテルブルグ音楽院を離れなければならなかったのか知っていますか? 彼女は、当時の皇室の言語のフランス語が喋れたからということだけで、追い出されてしまったのです。ソ連体制下で生き延びるために、彼女は当局の政策に従わざるを得ず、夜、子供と労働者にピアノを教えました。レニングラード(サンクトペテルブルグ)が包囲されているとき、彼女はグルジアの首府のトビリシに戻り、ピアノを教えましたが、彼女のすぐれた才能が妬まれため、学校で教えることはできず、子どもたちを教えることができるだけでした。これはケゼラーゼにとっては幸運となりました。というのは、彼女は小さい頃からこの偉大なピアニストについて学ぶことができたからです。しかしながら、ソ連を逃げ出した音楽家の方が幸運だったでしょうか? これはわかりません。革命の後、たくさんのロシア人音楽家がアメリカに住みつきましたが、アメリカは消費主義が真っ盛りで、音楽家たちは皆、アメリカではやたらと速く演奏しさえすればいいことに不満を抱いていました。ホロヴィッツはアメリカでは、聴衆が好まないので、抒情的な作品を弾けないことに不満を持っていました。彼は魚が水から出るように、自分の環境を離れてしまったのです。どうしたらうまくやっていけたのでしょうか? このような聴衆を前にして、ラフマニノフですら演奏会を嫌っていましたが、生活のために、やらざるを得ませんでした。プロコフィエフはこれを見るとすぐに故郷に戻ることを決めましたが、ソ連は彼に政治宣伝の音楽を書くことを求めました……。このような悲劇が、伝統と伝承をすっかり破壊してしまいました。
(焦): 「リスト-シロティ」の演奏の奥義がそんなに伝わりにくかったとは、本当に想像できませんでした。
(ポ): 私にとっては全く不思議ではありません。とても多くの偉大な事物が歴史から消え去りました。北宋について言うと、汝窯は20年間存在しただけですが、ここで焼かれた「雨上がりの青空のような」釉薬の秘密は失われてしまいました。私の家族はかつてイタリアのペルージャ(Perugia)から受け継がれた、「吹き金」製造法の奥義を習得していました。これは、金を吹いて膨らませる技術で、金を気球にすることができましたが、やがて失われてしまいました。私に言わせれば、いわゆる「水上歩行」も伝説ではないと思います。過去には本当にこの技術が存在したのですが、その奥義は現在失われてしまったのです。
(焦): ケゼラーゼ夫人はPleshtcheyevaだけから学んだのですか? 彼女は当時どのようにピアノと音楽を学んだのでしょうか?
(ポ): こういうことなのです。私の妻の家はとてもおもしろい家柄です。彼女の家族はDesten王朝に属し、グルジアという国の歴史は1000年を越えてないのですが、彼等は3000年前にグルジアの地に町を建設しました。彼等は港を造って貿易を行い、悠久の文化を重ね、一族には高度な教育がありました。第二次世界大戦の時、彼女の父親はスターリンに捕えられ、やっとのことで、命や地位は保つことができましたが、首府を離れなければならなくなりました。それで、彼女の父親は他の都市で教育に携わり、大学を創りました。彼女の母親はピアニストで、イグームノフに学びました。ですから、ケゼラーゼは幼い頃から、母からピアノを学び、やがて、Pleshtcheyeva から学び、ロシアのリストの伝統を完全に身につけたのです。彼女のような幸運には、私は巡り会えませんでした。彼女は幼いときから最高のピアノ楽派に触れ、最も良い教育を受けていたのです。彼女には天分もあり、ピアノを長く学ぶ最も良い、最高の奨学金をもらいました。そして、大学院の卒業証書をもらう前に、既に大学から教職に就くよう頼まれるほどのレベルに達しました。彼女は卒業の時、シューベルトの「さすらい人幻想曲」(Wanderer Fantasy)、プロコフィエフの「ピアノコンチェルト第7番」、バーバー(Samuel Barber,1901-1981)の「ピアノソナタ」を弾きました。当時ソ連では、誰もこのアメリカの作曲家の作品を聴いたことがありませんでした。
(焦): シロティはアントン・ルービンシュタインとリストの両方から学びました。彼はかつてインタビューで、アントン・ルービンシュタインは偉大なピアニストで教師だったが、リストには及ばないと言いました。しかし、シロティはリストが偉大な理由については語っていません。
(ポ): 答えは簡単です。リストはとても明晰な教師でしたが、アントン・ルービンシュタインは違っていました。彼は直観と天分の人でした。これは、なぜかモスクワ音楽院の大先生達も同様で、彼等はそのテクニックを伝えることができず、有名なネイガウスもそうでした。ネイガウスがしたこと、それは学生を啓発すること、啓発することによって自身が啓発されることでしたが、これは決して教えることではありません。彼は非常に芸術的な人でしたが、大教室での授業では無駄話をたくさんしました。これは、なぜネイガウス派がすでに途絶え、彼の芸術とテクニックが、彼の逝去とともにすべて消失したかということの理由です。もし私が知識を伝えたいと思うなら、私自身が非常に明晰でなければなりません。良い教師が教室で話すことは、いつでも実際的で明確な内容でなければなりません。音楽家がマスタークラスを開く理由は、学生に実際的なテクニックと知識を学ばせることでなければならず、昔話や自慢話をだらだら話すことではありません。ピアニストがマスタークラスでブラームスがどのようにクララ・シューマン(Clala Schumann, 1819-1896)と昼食を共にしたかを話すなら、聴衆は好奇心から拝聴してもよいし、悪いことではありません。しかし、これは決して教えるということではありません。というのは、このような話は、ブラームスの音楽あるいはクララの演奏テクニックの情報と知識に関して私たちに何ももたらさないし、楽譜と無関係な情報を増やすだけです。これは非常に危険です。悪いことに、現在、マスタークラスの大部分は無駄話ばかりです。人々は既にこのような偽物の知識に飽き飽きしており、真の知識を学ぶ必要があると思います。
(焦): 今までのお話で、あなたは「楽派」というものをどのように考えているのか知りたくなったのですが……。
(ポ): 「楽派」は先人の智慧の集積であり、天分に頼るだけでは到達できない能力です。たとえばグールドですが、彼は驚くべき天才ですが、天賦の直観的な優れた才能持っていただけで、しっかりとした楽派の教育がありませんでした。このため、彼は晩年には次第に挫折を感じるようになり、最後には異常な方法で録音しました。グールドには、優れた才能がありましたが、彼の演奏から学ぶことは何もありません。どうして私はブルース・リーを20世紀で最も偉大な芸術家と認めているのでしょうか? これは、彼が人々に学習に対する尊敬をもたらしたからです。彼の映画の主題は全て主役が自己犠牲を通じて学習し、学習を通じて自己を鍛え、そして戦います。自己の絶えざる向上により、完全な美に近づきます。「完全な美」は決して存在しません。神のみが完全な美であり、私たちは人間です。しかし、私たちは進歩し、向上することが必要です。進歩を止めることはできません。退歩を望む人は誰もいません。私たちはネイガウスを責めることはできません。彼もまた完全な美と進歩を追求していたからです。ただ方法が間違っていました。私たちはネイガウスとグールドの才能を尊敬することはできますが、彼らの才能から何かを学ぶことはできません。
(焦): それでは広い意味で、「ロシア楽派」と「ソ連楽派」との最大の違いは何でしょうか?
(ポ): 簡単に言うと、サンクトペテルブルグを中心とする「ロシア楽派」は解釈とテクニックの細部にわたる琢磨を重視し、質が量に勝っています。モスクワを中心とする「ソ連楽派」は大量かつ広範な曲目に力を入れ、量が質に勝ります。このような変化とソ連の政治環境とは強い関連があります。ネイガウス自身の演奏はロシアの伝統に属していますが、彼の生徒、たとえばギレリスやリヒテルは、ソ連の生活が優れていることを体現し、季節ごとに何曲かの新しい曲目とコンチェルトを演奏することを迫られ、ひとつの曲を完全に弾きこなすことはまったくできませんでした。これはひとりの女性が年に20人の子供を産むのと同じようなものです。ギレリスとリヒテルはいずれも非常に優れた才能の持ち主であったにもかかわらず、国家に自己犠牲を要求され、優れた才能を消耗させてしまったことは、非常に残念です。私に言わせると、ネイガウスの核心は、響きの追及、楽曲の文学的解釈、音楽的思想と芸術的イメージにあります。正しい方法は、まず音色とテクニックを身につけ、思考を経てから芸術的イメージを創り出すべきです。しかし残念なことに、ネイガウスの学生は速く学ぶように圧力をかけられ、あえて反対の方向に進みました。彼等はまず芸術的イメージをつくり、彼等の出せる音を使って演奏しました。しかし、これはしばしばあまり芳しくない結果をもたらしました。あらゆるところで国家が宣伝し、学生たちはギレリスやリヒテルのようなソ連のピアニストを尊敬しなければならないと言われていました。ときには、彼等が学校に来て演奏しましたが、準備不足であまり良い演奏ではなかったにもかかわらず、学生たちは皆彼らを崇拝するように定められ、どのように弾こうと、大きな拍手をしなければなりませんでした。ピアニスト本人は何の考えもないと私は思いますが、国家の機関が背後でコントロールしていました。イデオロギーが全てを主導し、政治思想のコントロールは楽曲にも及んでいました。たとえば、私たちは試験でラフマニノフの「ピアノ協奏曲第4番」を弾くことはまったく不可能でした。西側の影響を受けた腐敗した作品と見なされていたからです。プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」のモチーフはアメリカ文化の影響を受けていますが、当時はこのような議論は絶対に禁止されており、議論の余地は全くありませんでした。
(焦): ギレリスとリヒテルは、いずれも表現にもの足りない時期もありましたが、彼等がソ連の最も傑出したピアニストであることは疑いなく、彼等以外に誰を認めることができるでしょうか?
(ポ): その通りです。私が1983年にパリでプロコフィエフの「ピアノソナタ第6番」を演奏した時、プロコフィエフの未亡人がとても興奮して、楽屋の私を訪ね、「亡夫がこの曲をあなたに献呈できたら良かった」「でも、彼はあのとき、この作品をリヒテルに初演させたの。彼は、ああいう演奏が好きだったらしいわ」「あなた、あの頃は、それ以上のピアニストはいなかったのよ」と言いました。あの時代のソ連は、ギレリスとリヒテルが最高の模範でした。ところで、私の評価について、みなさんに誤解してもらいたくないのですが、こういう例を挙げて、あの時代を説明しただけなのです。
(焦): しかし、ソ連体制は国家が後押しして、すぐれた才能を育成したのではないですか? 西側から見れば、これはやはり恵まれた教育です。
(ポ): 実際は、以前の帝政ロシア時代の音楽教育の方がしっかりしていたと言えます。ソ連時代よりはるかに優れています。以前、ロシアの音楽院の修業年数は9年でした。現在は博士だけが9年学びますが、以前のサンクトペテルブルグとモスクワ音楽院の全ての学生は、大学相当の卒業に9年間が必要でした。ピアノ専攻の学生はその他の楽器も勉強しなければならず、声楽、指揮、作曲等の専攻は、ピアノの調律の仕方まで学ばなければなりませんでした。このような教育は、学生にきわめて強固な能力を身につけさせます。ソプラノのNina Koshets(1894-1965)は、ラフマニノフの愛人で、彼の歌曲作品38を献呈された人であるとともに、超絶技巧の声楽家です。しかし、彼女がモスクワ音楽院卒業の時、バッハの48曲の「前奏曲とフーガ」とベートーベンの32曲のピアノソナタを弾いたなんて、想像できますか? Pleshtcheyeva は、コンサートで、前半で歌い、後半でピアノの派手な大曲を弾きました。彼女たちは最も良い教育を受けた人たちです。しかしソ連は革命の後、お金をケチるために音楽院の課程を5年間に短縮しました。予想通り、何もかも変わってしまいました。私がまだ学生だった頃、モスクワで展示されていた中国のある工芸品を見たことがあります。それは祖父から孫まで三代を費やした精緻な細かい彫刻で、中から外まで29重ねの象牙の球でした。これは、恐らく世界で最も精緻で複雑な芸術品だと思います。たったひとつの過ちが、祖父、父、子が3代にわたって心血を注いだ労作をぶち壊してしまう危険性もあったのですから。私はこの象牙の球と、それが私に与えた大きな驚きを永遠に忘れることはできません。ひとつの作品の中に、自分自身のすべてを捧げた人がいたのです。知識も、テクニックも……。それが学習です! モスクワ音楽院では、教師はリヒテルを手本にして学生を鼓舞し、1週間で3曲のコンチェルトを練習させ、ステージで演奏させました。何を考えていたのでしょうか? それは、カラヤンがかつて毎週1枚の新録音をしたようなもので……、あれも何を考えていたのでしょうね? そのような録音が後世に残るものなのでしょうか?
(焦): どのようにしてケゼラーゼと知り合ったのですか? 「伝説」によれば、あなた方は、あるパーティーで知り合ったということですが……
(ポ): あれは、彼女の前の夫の誕生パーティーでした。彼女の前の夫は重要なポストに就く外交官で、ソ連ではきわめて強い影響力を持っていました。彼の父も著名な科学者で、国防部の科学研究開発を担当し、冷戦時の最も重要な人物のひとりでした。当時、私は知らなかったのですが、彼らは既に別居していて、4歳の子供のために暫く婚姻を続けることを望んでいたようです。
(焦): そのとき、あなたは何を演奏したのですか?
(ポ): 私はべつに演奏したわけではなかったのですが、ただ興に乗って何かの作品の一節を弾きました。ケゼラーゼは、それを聴いて私に近寄ると、「こんなふうに弾いてみたら……、この姿勢はちょっと変えたらどう?」と言いました。この簡潔な話の中から、私は即座にこの言葉が深い研究に基づいていることに気づきました。私は、「あなたはとても良くわかっていますね! あなたの知識は絶対にモスクワからではないでしょう!」と言いました。これには、かえって彼女がびっくりしました。そして、私は言いました。「あなたは、ピアノを教えているのですか? もしそうなら、私があなたに学ぶことができるでしょうか?」彼女はこれを聞くと、さらに驚きましたが、「この学期はすぐに終わるので、夏が過ぎてからあらためて来なさい」と言いました。秋が来ると、私はすぐに彼女のレッスンを受けるようになりました。
(焦): その時、あなたは何を準備して行ったのですか?
(ポ): 私はベートーベンのソナタの1曲を準備して行きました。私は全楽章を弾けるようになりたいと思っていました。驚いたことに、彼女は一言話し始めると、そのまま4時間ぶっ続けで教えました。レッスンが終わると、私は疲れて動けないほどでした。彼女に学ぶのは本当に勇気と気力が必要で、さもなければ彼女の教え方を受け入れられなかったでしょう。つまり、それは私がこれまで知っていたピアノ演奏とは完全に違っていたのです。ところが、ひとたび彼女が示すピアノ演奏の奥義を知ると、正しい道をたどっていて、苦労して学ぶ値打ちがあることがわかりました。私は飛びたかったのですが、飛び方を学ぶ前に、歩けるようになる必要がありました。
(焦): その時は、まだゴルノスターエヴァのクラスで学び続けるつもりだったのですか?
(ポ): そうです、でも名義だけに過ぎません。モスクワ音楽院の最初の1年はとても不愉快で、全く何も学ぶことができず、完全な時間の浪費だと思っていました。モスクワを離れたいと思っていたとき、ちょうど、ケゼラーゼに出逢ったのです。これが、モスクワに留まった唯一の理由です。その後、学校の最後の1年間はマリーニンのクラスに替わりました。やはり名義だけの彼の学生であったとはいえ、マリーニンはとても良い人であったと言わなければなりません。残念なことに、彼とティマーキンは何年か前に亡くなり、ひとつの時代が終わりました。
(焦): 何年か前、あなたはドイツのツァイト紙(Die Zeit)のインタビューで、ケゼラーゼ夫人の最も重要なレッスンの成果を次の4項目にまとめています。第一、容易に完全なテクニックをマスターできたこと。第二、ピアノの音色の発展をはっきりと知ることができたこと。特に19世紀末から20世紀初頭までの発展と、ピアニストや作曲家の研究成果を。これらの作曲家は、ピアノが人間の歌声のような音を出せるとともに、オーケストラの多種の響きも備えていることを知っていた。第三、現代ピアノの各種の性能の理解。とくに豊富な音色をいかに運用するかを学んだこと。第四、異なる音楽スタイルの明確な区分と把握。私は特に現代のピアノについて、あなたに教えていただきたいと思うのですが、ネイガウス等が使ったのは、全てベヒシュタイン系統のピアノで、現在のスタィンウェイとは異なると思います。それは、ピアニストの技巧と音色に絶対影響すると思うのですが……。
(ポ): 実のところ、私もベヒシュタインを使って演奏してもいいのですが、あれは異なるテクニックの基礎とピアノの知識の上に出来上がっている楽器です。現代のピアノは重くなっていますが、性能は良くなっています。ただし、弾きこなすのは、難しくなっています。しかし、その性能に焦点を合せてテクニックの問題を克服できれば、豊富な色彩と表現力を引き出すことができます。
(焦): それではペダルの使用については?
(ポ): できる限りペダルを使うべきですが、これには音の明晰さとメロディーラインを絶対に壊さないという前提があります。多くの人がペダルを使いますが、メロディーラインを壊さないペダルの使い方を知りません。メロディーラインを壊すことは、音楽を壊すことです。たくさんの音楽家は本能に頼っていて、学習したことに頼って演奏してはいません。彼らは非常に音楽性のある演奏ができますが、作品として言えば、やはり不合格です。
(焦): マスタークラスで、あなたは読譜に非常に重きを置いていて、1小節といえどもおろそかにしません。楽譜の読み方について、簡単にお話いただけませんか?
(ポ): 最も基本的なことは、ひとつひとつの音符の長さを正確に読み取ることです。各音の持つべき長さを知った後、音の前後の重なりを知ればよいでしょう。続いて各声部の区別、表現の方向を考え、表情を加えます。これが全部できたら、作曲家のその他の指示を検討します。演奏家であれば、必ず楽譜を尊重しなければならず、さらに、いかに正確に楽譜を読むかを学ぶ必要があります。作曲家は非常に抽象的な音楽の言葉だけで彼らの考えを表現しているので、もし、私たちがそれを読みこなせなければ、音楽はその真の姿を失います。
(焦): しかし、作曲家の指示に私たちが本当に全面的に従うことができるでしょうか? 先ほど旧式のピアノとペダルについて語り合いましたが、リストは「メフィストワルツ」の冒頭で、14小節の長いペダリングを指示しています。これは、当時のピアノならば、このようなペダリングが適したものだったのでしょう! でも、もし私が現代のピアノでリストの指示通りに弾くと、恐ろしい音になるに違いありません。
(ポ): あなたの挙げた例には、大きな間違いがあります。あなたがペダル記号を見るとき、特にひとつの長いペダリングの指示があるとき、その意味は「ひとつの連続したペダリング」ではなく、「そのペダル記号中、演奏者はペダルを使ってよいし、各種のペダリングを使ってよい」と言っているのです。ペダリングには色々な種類があります。たとえば「ハーフペダル」は、演奏者がペダルを踏み込んだ後、半分戻し、低音を引き延ばすけれど異なる響きが混ざらないようにします。「クォーターペダル」は、ピアニストが低音を引き延ばすとともに、音の振動を利用して響きをクリアにする、或いは濁った響きを避ける。ペダル記号は、レストランの喫煙ゾーンのようなものです。非喫煙ゾーンでは喫煙はできませんが、喫煙ゾーンに来れば1本吸っても、2本吸っても、吸わないでも構わない、喫煙ゾーンで毎分毎秒喫煙し続けなさいということではありません。このほか、しばしば起こる読譜の問題は、「スフォルツァンド」(forzando)です。「スフォルツァンド」記号の本当の意味は、大きな音で弾いたり、語気を強めるということではなく、「強調」するということです。これは、ベートーベンの作品の中で、「スフォルツァンド」記号は音符の前に置かれており、音符の上ではないことの理由です。すなわち警告の表示、演奏者に次に強調が必要なことを気付かせる警告の表示のようなものです。どんな強調のやり方であっても、演奏者はさまざまな種類の方式で強調してよいのです。スタッカート(Staccato)は、通常は気分の指示であり、絶対に演奏する音の長さの半減ではありません。残念なことですが、20世紀の大多数のピアニストが正確な読譜の知識を失っており、この結果、作曲家の意図を間違えて理解しています。
(焦): あなたは、ピアノの音色を完全にコントロールして、たちどころに必要な響きを奏でることができます。どうやって、その域に達したのですか?
(ポ): ずいぶん前に、フィラデルフィア管弦楽団とラフマニノフの「ピアノコンチェルト」で共演したとき、オーケストラのクラリネット首席奏者が自宅で練習を重ねて、ようやくピアノと対話ができるようになりました。リハーサルの後、彼が私に様々な音色をつくる秘訣は何かと尋ねたので、私が弾いた音は全て「計算した響きです」と答えました。私の演奏では、無作為に出て来た響きはひとつもありません。全ての響きは、まず私の頭の中に現れ、思考を経て私が演奏します。これは「カンフー」です。カンフーの名人が煉瓦を割る時、手を下す前にどれだけの力が必要で、どの角度で煉瓦を割るのか、また煉瓦を割る時と材木を割る時との違いも知っているに違いありません。同じ道理で、ピアニストとしての私の技量は、各種の音色をつくりだす知識と研究に基づいて、絶えず練習を続けることによって支えられているのです。
(焦): ケゼラーゼ夫人は特定の作品を使って、あなたに響きのコントロール能力を訓練したのですか?
(ポ): ラヴェルが彼女の最も好きな作曲家で、彼女はラヴェルをとても深く研究していました。1979年の夏、彼女は「夜のガスパール」により私を訓練し、私のテクニックを更に高い領域に向上させ、響きを完全にコントロールできるようにさせるとともに、音楽の構造を深く把握させました。これは、私がプロフェッショナルなピアニストとして、テクニックを発展させる非常に重要な第一歩でした。その頃彼女は、私がすぐに「高雅で感傷的なワルツ」(Valses nobles et sentimentales)を練習することを望んでいましたが、私はこの曲に対して当時あまり興味が持てず、何年か放置した後に学びました。これもまた、私のピアノ演奏テクニックの向上に大きな影響を与えた作品で、とくに様々な音色と音響の表現の点で大きな成果を上げました。
(焦): あなたは、いつもどのように新しい作品を準備するのですか?
(ポ): 私は非常に厳格に、真面目に且つ正確に、時間をかけて楽譜を精読してから、音楽をひとまずおいて、思考にふけります。正確な譜読みは、正確な結果を導きます。私が台湾のマスタークラスで、学生にリストの「メフィストワルツ」の演奏を指導していたとき、すべての人は私がこの曲を弾けると思っていました。実は、私は2年前に真面目にこの曲の楽譜を読んだことがあるだけでした。マスタークラスの前にこの曲を弾いたことは無かったのですが、その中の非常に速く難しい部分を、その場でほとんど演奏することができました。これは正確な譜読みの成果です。思考の論理は天分からもたらされるものではなく、教育からもたらされるものです。もし私が楽譜を精読してからその作品を演奏すると決めたのなら、多くの困難に出会ったとしても、ほぼ上手くやれます。ベートーベンの31曲のピアノソナタを学んでも、32曲目が簡単な曲に変わることはありません。ピアニストは、依然として32番目の曲の新たな問題に向き合わざるを得ません。音楽、或いは人生にしても、その中にはいつも困難があるはずで、私たちは学習し、進歩することで、そのような困難を克服しなければなりません。
(焦): もう既に何度も尋ねられたと思いますが、私にはまだ強い関心があります。あの時のショパンコンクールで、何が起きたのでしょうか? 私は、これは20世紀で最もセンセーショナルな音楽事件のひとつだと思います。
(ポ): あのときのコンクールの第1位は、実際は、あの年の4月にソ連によって「決定」されていました。あの頃、ソ連の文化部の下部に国際コンクール組織があり、専門にソ連のコンクール参加者のすべての「面倒を見て」いました。私はショパンコンクール参加前に、1978年にイタリアのカサグランデ国際コンクール(Casagrande Competition)で第1位となり、1980年にカナダのモントリオール国際コンクール(International Music Competition in Montreal)でも第1位となっていました。モントリオール国際コンクールの後、モスクワに戻りましたが、チャイコフスキー音楽院のピアノ科主任のドレンスキーが私に会いに来て、私にショパンコンクールを捨てるように「提案」しました。彼は、私が彼らを妨害さえしなければよく、まだ誰を推すか人選していないので、1982年のチャイコフスキーコンクール第1位と交換できると言いました。私は、「ありがとう」と言って別れました。今まで、私はモスクワで音楽会を開いたことは全くありません、というのは、あそこの人たちは誠実ではないので、あそこで演奏したくないのです。
(焦): あなたがショパンコンクールの準備をしているとき、自分の芸術的性格の一部を隠そうとは思いませんでしたか? あなたは自分の大胆な解釈が排斥されると思ったことはないのですか?
(ポ): そういう教育を、私は受けていません。芸術の世界では、一度引き下がると、自分の信念を保つことができず、再び取り戻すことは困難です。人生もそうです。私の妻が最も良い例です。彼女は夫の姓を名乗ったことはなく、自分を「ポゴレリッチ夫人」とは呼ばず、いつも「ケゼラーゼ」の名で生きていました。この名前には、大きな意味があります。彼女は、グルジアの公主の子どもで、当時の貴族は胸を美しく保つために、自分では乳をやらず、子どもを田舎の丈夫な乳母に渡して養育させました。それで、「ケゼラーゼ」というのは、実は彼女の乳母の姓なのです。しかし最終的に、この姓がスターリンの迫害から身を隠す助けになり、ソ連時代には、これは彼女の秘密で、他人に話すことはありませんでした。私と彼女は同じような信念を持っており、時局がいかに険悪であっても屈服せず、自分に忠実でなければならないと思っていました。自我を保つことは、人間の最も難しい挑戦です。私はショパンコンクールで、カサグランデ国際コンクールやモントリオール国際コンクールと同じように準備し、このコンクールのために特別の考えを持ちませんでした。つまり、何も隠さず、奇をてらうこともなく、私の音楽の見方と考え方を示しただけです。
(焦): あなたは、自分がコンクールであんな大騒ぎを引き起こすと思っていましたか?
(ポ): そんなことは思ってもいませんでした。しかし、私が10年いた国家が、あらゆる手段で私に圧力をかけ、様々な汚い手段を使うとは予想もしていませんでした。実際、私が第1次予選を弾き終わると名前は消されていて、もともと第2次予選に進むはずではなかったのです。
(焦): しかし、あなたは第2次予選でも弾くことになりましたね? それは、どういうことだったのでしょうか?
(ポ): もともとの公表用リストでは、私はすでにふるい落とされていました。リストが公表されるとき、カナダを代表する審査員が先にリストを見ました。彼はモントリオール国際コンクールの審査員でもあり、リストに私の名前が見当たらないのを不可解に思いました。それで、「ポゴレリッチは? 彼の名前がなぜないのか? 」「すみません。私たちが名前を間違って印刷しました」ということになったのです。もし、あのカナダの審査員が見つけなければ、残念ながら私はとっくにアウトになっていて、アルゲリッチが私の演奏を聴く機会はありませんでした。あのときのコンクールで、彼女は開幕音楽会で弾いてから帰ってしまい、第二次予選から審査員に加わったのです。
(焦): ケントナー(Louis Kentner,1905-1987)は、あなたに対する審議を要求しましたね?
(ポ): 私は、その点は知りません。彼はあのときとても不幸で、(というのは)身体の調子が悪く、特に聴力が非常に悪く、(彼の生徒の)4人のコンクール参加者は皆、次の予選に進めませんでした。彼は、コンクールの状況を自分でも理解できていなかったのです。彼の審査員辞任には多くの原因があると私は思いますが、絶対に私が原因ではありません。これは誰かが私を攻撃するための口実だったのかもしれません。
(焦): あなたはショパンコンクールの後、ただちに世界を征服し、世界中のピアニストの頂点のひとりになりました。これはケゼラーゼ夫人のピアノテクニックの力を証明していると私は思います。しかし、不思議に思うのですが、ベートーベンとリストから続く伝統的テクニックであるにもかかわらず、なぜこれまで、ピアニストたちはこのような偉大なテクニックの訓練を無視してきたのでしょうか?
(ポ): このような学習方式は、現代の演奏家に対する要求と完全に正反対なのです。ケゼラーゼの要求を満足しようとすれば、多くの時間が必要ですが、現在の演奏の訓練は、人を機械に変えて、高速で学習することを要求します。今、お話ししたように、ソ連の演奏システムは、約3ヶ月の間隔で新しい演奏プログラムを練習し終えることを要求します。現代の人々が最も多く称賛することは、ピアニストの誰々は午後楽譜を手にすると、夜にはステージで演奏できるというようなことです。多くの人々がそのような演奏の仕方を賛美すべきものと見做しますが、私はそのような演奏には全く興味がありません。というのは、これでは音楽家に求められる要求に全く応えられないからです。私も1週間で大きな作品を学び終えることができますが、ステージで演奏することはできません。というのは、そのようなやり方は自分を欺き、作曲家を欺き、聴衆を欺き、音楽をも欺くものだからです。私はそのような人間とは全く異なります。私がラフマニノフの「楽興の時」を準備したとき、第2曲のあるフレーズにずっと満足ができずにいました。5年の時間を費やして、やっとうまく弾けるようになりましたが、そのフレーズのために、しばしば8時間も続けて練習したものです。実際、急いで曲を練習すると、やがて記憶のトラブルを引き起こします。私の曲の勉強は、音の記憶と筋肉の記憶の両方ですが、急いで曲を練習すると、往々にして頭をすり減らし、耳の記憶だけで筋肉の記憶はなくなります。これはまた、多くのピアニストが速く弾くことはできるが、遅く弾くことができない原因です。彼らは速く弾かないと思い出せないからなのです。ゆっくり弾くと、彼らはひとつの音符も思い出せません。
(焦): この問題は、学習と商業的なパフォーマンスとの相克から生まれます。
(ポ): 学習の観点では、絶対にひとつひとつの曲を磨き上げなければならない。しかし、演奏活動の観点では、マネージメント会社は若いピアニストに「コンチェルトをどれだけ弾ける? 何曲ある?」と訊き、質より量を重視します。しかし、私が強調しなければならないのは、結局は、音楽芸術は量の多さではなく精緻さに、その成果が現れるということです。多くの人々は山ほど録音しますが、結局どれだけが市場に残るでしょうか。私の曲目はそれほど多くありませんが、どの録音もリリースが続けられていて、毎年相当な売上があります。「少」が「多」に変わっています――皆この問題について考えるべきです。ある有名なピアニストがケゼラーゼの下で学んだことがありますが、とうとう彼女は断念することを選びました。彼女は、「もし私がこの練習方法に従って学ぶとすれば、1年でやっと1ページ程度しか練習できません。私は子供の面倒を見なければならないし、コンサートで演奏もするので、このような練習はできません」と言いました。――彼女は、音楽の要求には到達しなかったけれど、少なくとも誠実です。音楽と聴衆に対しては誠実ではありませんが。しかし、私は音楽の要求に到達しなければなりません、なぜなら、これが楽曲を尊敬する唯一の方法だからです。多くのピアニストが演奏する「展覧会の絵」の「市場」(Limoges)を聴くと、彼らがすべての音を明瞭に弾いていないことがわかります。これは、絶対に楽曲を輝かせるやり方ではありません。一方、これを上手く弾くために、私は何年もの月日を練習に費やしました。
(焦): あなたはケゼラーゼ夫人が亡くなってから演奏活動が大幅に減りました。人生の伴侶をなくしたこと以外に、何か他の原因がありますか?
(ポ): 本当の原因は私の左手にあります。私は1987年にうっかりして、ある種の病気に感染しました。最初は気にとめなかったのですが、やがて左手の指に影響が出て、薬指と小指に力がなくなり、ひどい時は麻痺しました。
(焦): ケゼラーゼには、その問題を解決するための方法は無かったのですか?
(ポ): ここに問題がありました。ケゼラーゼのテクニックのシステムは完璧で、このシステムでピアノを練習していれば傷めることは全くないのですが、私の場合は外部から来た原因で、練習によって傷めたのではないため、彼女はその問題がなぜ生じたのかを理解できず、私が抱えている問題を想像することすらできませんでした。彼女は、私がブラームスの「パガニーニの主題による変奏曲」、ストラビンスキーの「ペトルーシュカからの3章」、ラヴェルの「左手のためのピアノコンチェルト」等の曲の準備をすることを望んでいました。しかし、私は練習を続けることができませんでした。左手の力を保とうとすると、身体の全体のバランスが崩れてしまいました。両手の状態が全く違っていたので、力を抜いて演奏することがとても困難だったのです。私の左手は右手より疲れ易く、あるフレーズを弾くときには指使いを換えざるをえませんでした。この状況は、彼女が亡くなるまでずっと続きました。(1987年から)9年の間、私の状況はますます悪くなりましたが、ケゼラーゼが亡くなった後、速やかにこの問題を解決し、私のテクニックを取り戻さなければならないと思いました。そのときから、私は演奏会をキャンセルし始めました。
(焦):しかし、そういう問題を抱えていたことに、誰も気づいていませんでした。あなたの演奏のテクニックは相変わらず完璧でしたから。
(ポ): 私は自分に対して誠実な人間です。あの時期の録音を聴くと、あの2本の指の表現に感情が欠けていることに気づきます。他の人にはわからなくても、私にははっきりしているので、録音も止めました。
(焦): その後、あなたはその問題をどのように克服したのですか?
(ポ): 私は演奏を減らし、録音は止め、毎日泳いでリラックスしました。そして、あるベトナムの鍼灸師と6年間をかけて、とうとうその疾患を完全に治しました。今は私の左手は正常で、以前よりも強く、そして軽くなっています。これは優れたピアノテクニック、良い演奏システムがもたらした恩恵で、私のテクニックは絶えず成長していて、老化はしていません。多くのピアニストは才能と天分だけでピアノを弾いており、ピアノ演奏の神秘について真剣に考えないので、歳月とともに衰えます。今でも、私は依然として学び続けて、音楽とピアノ演奏テクニックの知識を絶えず増やしています。私は学ぶことを止めることが出来ないのです。
(焦): その経験はあなたの芸術観やピアノのテクニックに影響を与えましたか?
(ポ): そうは思いません。私にとって、それは、ただの医療記録です。しかし、ケゼラーゼの助けがなければ、自分のやり方を見出すために長い時間を費やすことになったことは確かでしょう。彼女が亡くなってから、私はラフマニノフの「楽興の時」とグラナドスの「ゴヤの絵」の練習を始め、再び音楽の道を模索し、自分で答えを探しました。7年間の努力を経て、私はとうとう自分のやり方を見つけ出したのです。
(焦): しかし、あなたの音楽の見方はこの何年かで大きく変わっていて、たとえば、プロコフィエフの「ピアノコンチェルト第3番」の演奏は、以前とまったく違います。
(ポ): この曲に関しては、きわめて込み入った経緯があります。私は、この曲の第1楽章を音楽院の冬季試験のプログラムとして弾き、やがてモントリオール国際コンクールで初めてオーケストラと全楽章弾いたので、この曲とは既に四半世紀の付き合いなのです。何年もの演奏の蓄積と考察を経て、私は現在、より新しい角度からこの作品を見ることができます。特に、この曲の中の様々なモチーフを新しい角度から見ています。プロコフィエフは当時、シカゴでこの作品を初演しましたが、楽曲中には確かにアメリカ音楽の影響があり、私はその影響を表現したいと思いました。私の解釈が変わったので、テクニックもすべて新しくする必要があり、まったく新しい音色を創ってこの作品を演奏しました。ですから、音楽或いはテクニックだけではなく、私の演奏自体が以前とまったく違うものとなったわけですが、それは長年の考察の収穫です。その前にDG(ドイツグラモフォン)が何度かこの作品の録音を提案しましたが、私はすべて断りました。というのは、私は、より新しい弾き方、より深い見方があり得ると思っていたからです。今になってようやく、この協奏曲を録音できると感じました。
(焦): あなたはきっと、すでに多くの人から、その新しい観点がどこから来たのかと尋ねられたことでしょう。つまり、新しい観点が非常に特殊で、極端に言えば、いまだかつてないと言えるからなのですが。
(ポ): 私は私のやり方で、私の受けた教育に基づいて楽譜を理解し、作曲家の思想を表現しています。もし私たちが音楽の中に新しい観点を見出せなければ、それは先人の考え方を繰り返しているのに過ぎず、それでは、音楽に新しい水を注ぎいれることはできません。例を挙げると、「シェークスピアって誰?」――これは簡単な問題ですが、学界には各種の異なる答案があります。しかし、各種異なる答案があっても、シェークスピアを損なうことはなく、むしろ、この文学者に対する新たな見方で、人々を更に惹きつけています。ピアニストはひとりひとり違います。受けた教育も違うし、個性も違います。これは、かえって音楽の解釈をより深いものにします。私は多くの人々の批評を受け入れますが、自分の考えを隠すことは絶対にしません。
(焦): あなたは今度のアジア公演(2007年)で、日本では何曲かの速いテンポの「超絶技巧練習曲」と技巧的な大曲を演奏し、台湾ではグウィニス・チェン(陳毓襄)との競演のコンサートで、遅いテンポの小曲ばかり演奏しました。どうしてこんなに違うプログラムにしたのですか?
(ポ): リストのテクニックの偉大なところは、絶えず発展し、進歩していたところにあります。彼は晩年になって、若い頃より上手く弾きました。実際、すべての偉大な巨匠は皆、歳月とともに成長し、絶えず更に高い境地に進みます。台湾での演奏会では、私は少し異なる高度な超絶技巧で、ある響きのコントロールをやってみたかったのです。私は響きの色彩を用いて音楽の中で語り、響きの変化を使って楽曲の奥に内在する生命を表現しました。ブラームスの「間奏曲」(Intermezzo,Op.118,No.2)とグラナドスの「スペイン舞曲」(Danzas Espanolas)では、何度も繰り返すモチーフとフレーズが出てきますが、すべて異なる色彩と響きでそれを描き出しました。この演奏は即興の趣でしたが、私は色彩と響きを即興で表現しただけです。
(焦): それで、やはりあなたの原則である自分を貫くことに戻ったのですね。
(ポ): あるとき、カバリェ(Montserrat Caballé,1933- )がコンサートの後で楽屋に私を訪ねてきて、こう言いました。「私はあなたのすべての録音を持っていて、飛行機の中で全部聴いて、とても気に入り、あなたの演奏をよく理解しています。それでも、このコンサートで、私はたくさんの新しい発想を聴き取りました。あなたはすでに先人が未踏の境地に達しています。私はあなたがそれを続けて、そこに留まり、絶対に変えることなく、絶対に妥協しないことを望んでいます。これにはとても大きな力と勇気が必要です!」。――その通りです。そのようなレベルを保つためには、大きな勇気と力が必要ですが、私は、それを目指して努力することができます。
(焦): あなたは若いときに有名になりましたが、現在、自分の仕事と名声をどのように考えていますか?
(ポ): 私に言えることは、若くして有名になることの利点は、私の名声を芸術への貢献に使うことができることにあり、それに尽きるということです。人生は戦いばかりで、私は永遠に自分の芸術のために奮戦しているでしょう。アメリカでは、唯一の重要なことはいかに売るかであり、芸術ではありません。バイロン・ジャニスは傑出したピアニストですが、ヴァン・クライバーンが第1回チャイコフスキーコンクールで勝利し、アメリカのアイドルになってから、たとえバイロン・ジャニスがヴァン・クライバーンよりはるかにうまく弾いても、彼は得意な曲目を希望通りに録音することはできず、レコード会社はヴァン・クライバーンが既に録音した曲を彼が録音することを望みませんでした。これは、芸術の大きな悲劇であり、大きな損失です。このような消費主義が、アメリカでは長年続いています。チャイコフスキーはかつて手紙の中で、あるアメリカの女流ピアニストがワイマールに来てリストに何回かのレッスンを受け、アメリカに帰るとリストの看板で学生を教え、金持ちになったと言っています。リストは一生の間にそんなに多くの金を稼いだことはなかったのですが! 20世紀は、天才がソ連や共産主義国家の状況のように、国家に売られるものではなく、欧米の状況のように、消費主義に売られるものになりました。1980年代、エージェントの中には私の演奏の価値と私が継承している楽派を知る人はひとりもなく、私のルックスと私の青春を売ろうとだけしました。私の台湾、韓国、日本の最初のコンサートは、一度の例外もなく、聴衆の中心は12歳から15歳の女の子でした。コンサートが終わると、彼女たちは私に会い、私の写真にサインを欲しがりました。初めてオーストラリアで演奏した後は、何とあの国のセックスシンボルのトップに列せられました。そのため、そのような地方では、私を受け入れる準備ができていないことを知り、非常に長い時間を経てようやく、再びこれらの国で演奏するようになりました。私のような人間は、私の芸術がうわべとだけのものではないと理解されれば、そこで演奏したいと思うのです。
(焦): あなたが有名になった当初から、ずっと慈善活動を熱心に続けていることを、私は知っています。長年、あなたが継続しているこの活動について、お話いただけますか?
(ポ): 私の家には、きわめて深く熱心な宗教的伝統がありました。私の父はキリスト教徒で、母はロシア正教徒だったので、私たちの観念では、喜んで慈善事業に貢献することが、大きな美徳だったのです。私は若いときに、自分が幸運であることを知りました。つまり、良い先生に巡り会い、私の才能が認められ、援助を受けることができたということです。ですから、私はもっとお返しをしなければならないのです。演奏によるお返しだけではなく、私の名前で何か良い事をする必要があります。私が得たものは、私が与えたものよりはるかに多いと言うことができます。私は1981年にメキシコの震災のために開いたコンサートを永遠に忘れることができません。たくさんの子どもたちが父母を無くしましたが、私のコンサートで募ったお金で彼等のために玩具や楽器を買うことができ、彼らに教育と安らぎを与えることができました。四半世紀が経ち、私が台湾で聴覚障害と視覚障害の児童のために、慈善コンサートを開いたとき、何人かの子供達がテディベアとおもちゃの犬を持って舞台に上がり、私にプレゼントしてくれました。この時、私はメキシコの子どもたちを思い出し、彼らのプレゼントにとても感動しました。これは、私がステージの上で得られる最大の喜びです。
(焦): あなたは自分の録音や公演には細心の注意を払っていますが、金銭にはこだわっいませんね。
(ポ): 私の家庭は、以前はとても豊かだったので、お金は私にとってありがたがるものではありませんでした。私は、金銭に夢中になることは全くありませんでしたし、アメリカとヨーロッパの消費主義に惹かれたり、影響を受けたりすることもありませんでした。極端に言えば、私は金銭に対しては「ノー」と言います。もし私が望んでいれば、今より多くのお金を稼げましたが、そのようにはしませんでした。これも、私にとって幸運だったと思います。というのは、私が財産のために道を誤ることなく、私の家庭に尊厳をもたらしたことに大きな喜びを感じるからです。私の母方の祖父は「第二次大戦」以後、働く権利を剥奪されましたが、これは彼にとっては死刑の判決のようなものでしたが…。彼がその後、何をしたかわかりますか? 彼は道路掃除夫となり、非常に威厳をもって道路掃除夫を務めました。「仕事は仕事」、「仕事がないと、自分の値打ちが下がる」と祖父は言いました。彼は以前とても富裕でしたが、道路掃除夫になることも厭わず、誇りを持ってこの仕事を務めました。私の家庭の境遇から、世の中は知識と尊厳と愛があれば、他人が去ることはないことを私は知りました。そして私はこれを永遠に記憶に留めています。
(焦): あなたは現在まだ、多くのコンサートや他のピアニストの演奏を聴きますか? 余暇は何をしていますか?
(ポ): 私には、たくさんの録音やコンサートを聴く時間がありません。時間があるときは、声楽や民族音楽(folk music)、あるいは好きなジャズを主に聴きます。この何年か、タンゴとスペイン語を勉強しており、スペイン及びラテン音楽への理解を深めました。
(焦): 今、新しい計画や研究中の作品はありますか?
(ポ): 今年中にラフマニノフの「ピアノコンチェルト第2番」、「ピアノソナタ第2番」とプロコフィエフの「ピアノコンチェルト第3番」等の作品を録音したいと思っています。アルベニスの「イベリア」全曲も、演奏したいと思っていますが、自分の時間を考えると、この作品を私が満足できる水準に仕上げるには5年以上の時間がかかると思います。ですから、この計画は延期するしかありませんが、グラナドスの「スペイン舞曲」は既にステージで演奏をしたことがあり、「ゴヤの絵」も演奏したことがあります。ピアソラ(Astor Piazzola,1921-1992)の作品も大変好きです。現在多くの人々がラテン音楽を演奏しますが、ただ感動的な旋律に熱中するだけで、音楽の中身は全く理解していません。タンゴのリズム、速度、ダンスのスタイルと歴史的背景のひとつひとつが全て、表現意義と感情概念を持っています。このようなダンスの要素の意味を注意深く掘り下げて研究しさえすれば、ピアソラのいかなる作品も、そのリズムとメロディーの配列を分析して音楽に内在する意味と物語に至ることができます。有意義なのに堅苦しいところがない、スペイン・ラテン音楽を、もっと演奏すべきだと思います。私は1978年にカサグランデ国際コンクールに参加したときに、バルトークの「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」(Sonata for Two Pianos & Percussion)の楽譜を持ち帰りました。そのときから、この作品に夢中になり、今に至っています。この作品を演奏したいと思い、ずっと持ち願い続けています。Bad Wörishofenの「ポゴレリッチ音楽祭」(Ivo Pogorelich Festival)も2008年に再び開催し、私が1988年から国連の主席ユネスコ親善大使(Ambassador of Goodwill)を務めていることを記念しています。2009年にはワイマールで再び「ポゴレリッチピアノコンクール」を開催し、多くの優秀なピアニストを発掘したいと思います。
(焦): あなたは新しい世代の音楽家にどんな期待を持っていますか?
(ポ): 人生には限りがあり、短いので、知識を伝承することがとても大切だと思っています。私が一生をかけて学んだことを後世に伝え、この独特で歴史あるピアノ演奏テクニックが継承され続けることを望んでいます。現在、多くの人々が速く成功したいと思っています。多くの国々では、アイドルになることが流行っていて、自分に投資した元手をとることばかり考え、学習や進歩のことは考えません。しかし、「学び」は速成するものではなく、本当の成果を得るためには専念し、努力し続けることが必要です。私は、若い音楽家たちが、音楽を尊重し、芸術の前では謙虚に、手っ取り早い名声を追い求めないことを望みます。芸術家は広く深く学ぶことが必要ですが、永遠に自分の信念を持ち続けることも大切です。

ゴールデン・ウィークは、取材、原稿書きなどに追われながら、幾つか演奏会に足を運び、LFJのコンサートも少しだけ聴きました。美味しいものもいっぱい食べ、とっても嬉しいこともあり、それやこれやあらためて書きたいと思いますが、今日は、来日中のイーヴォ・ポゴレリチの演奏が話題になっているので、台湾の音楽評論家、焦元溥(Jiao YuanPu)氏が世界各国のピアニストのインタビューした記録をまとめた『遊藝黒白(The Colors between Black and White) 』の中の、ポゴレリチの項を翻訳してみました。

焦元溥氏は、1978年、台北市生まれの音楽評論家。台湾大学で政治学(国際関係論)を学んだ後、アメリカ(The Fletcher School , Tufis University )で法律と外交の修士課程を修め、さらにイギリス(King's College , University of London) で音楽学を学んだ俊才です。15歳から、台湾、香港、中国の様々な音楽雑誌に寄稿し、現在は音楽評論家として活躍しています。
2010年に生活・読書・新知 三聯書店から出版された『遊藝黒白』(上・下)には、世界各国のピアニストへのインタビューが掲載されていて、日本の音楽ジャーナリズムとは違う視点のQ&Aを、興味深く読んでいたのですが、その中のポゴレリチの項を翻訳してみました。

遊藝黒白 ~The Colors between Black and White~
焦 元溥 著
第3章 欧州のピアニスト
Ivo Pogorelichi (1958~ )
1958年旧ユーゴスラビアに生まれ、11歳でモスクワ中央音楽学校でエフゲニー・ティマーキン氏に師事した後、モスクワ音楽院でアリス・ケゼラーゼ女史に出会い、共にリストの弟子シロティの解釈について研究し、ついに女史を生涯の伴侶としたことが、美談として伝えられている。
1978年イタリアのカサグランデ国際コンクール第1位、2年後のモントリオール国際コンクール第1位、1980年10月にポーランドのワルシャワで開催されたショパン国際コンクールでファイナルに進めなかったことに、マルタ・アルゲリッチが抗議して審査員を辞したことで一躍注目を集める。1981年、ニューヨーク・カーネギーホールでのデビューリサイタルで大きな成功をおさめ、国際的に高い評価を受けて以来、世界中の大きな舞台で活躍している。演奏活動以外に、慈善事業にも熱心で、1988年にユネスコの親善大使に任命され、1992年にはクロアチア政府から「文化大使」に任命されている。
焦元溥 (焦) : まず、あなたが育った家庭についてお話いただけますか?
ポゴレリチ (ポ) : 私の父はクロアチア人です。父は音楽が大好きだったのですが、祖父が保守的な人物で、音楽家ではなく、法律家のような社会的地位の高い職業に就かせたいと思ったようです。ちょうど第2次世界大戦が始まって、父は故郷を離れてドイツ軍と戦ったこともあり、音楽を正規に学びたいと思ったときは、すでに遅かったということです。とても残念なことですが、それでも父は、コントラバスやサックスを上手に演奏していました。母はセルビア人で、私の家は地主として農業経営で生計を立てていました。
(焦) : あなたは、小さい頃から天才を発揮し、9歳のときにテレビ番組で演奏したのですよね。
(ポ) : そして、人々が私の演奏についてあれこれ評論し始めました。私はそれがすごく嫌だったし、ほかの子どもたちが毎日楽しく遊んでいるのに、家に引きこもってピアノの練習をしなければならないことも嫌でした。でも、それが私の運命だとあきらめていました。これは私の運命だとしか言いようがないと! 祖父の私に対する影響が大きかったことも、お話しなければなりません。彼は高い知性を持った人で、8種類の言語が話せました。彼は、毎日違う言語の新聞を読んでいました。ある日はドイツ語、ある日はイタリア語、ある日はフランス語というように、一週間毎日変えて、頭の中の言語能力を鍛えていたのです。そして、彼の言語能力が私の父を救いました。父が16歳のときにナチスに捕えられ、死刑を言い渡されたとき、祖父が流暢なドイツ語で救命のために走り回り、幸いにも父は一命をとりとめたのです。私は4歳のときから、祖父に文字を習い、勉強を始めました。それも、クロアチア語とセルビア語を同時にです。父が仕事に出かけている間は、祖父が私の面倒をみていました。高い知性を持ったインテリの祖父の教育を受けて、私の発達は早く、学校に入ったときには、あきらかにほかの子どもたちより進んでいたので、時間やエネルギーを音楽に使うことができました。当時私の父は、私に総合的な音楽教育を施したいと思っていたようで、ヴァイオリンも習わされたのですが……、どうか勘弁して! それはピアノを弾くよりもっと嫌なことでした。その頃の私は、まったく何もわかっていなくて、どうして片方の手で指板を押さえ、もう片方の手で弓を持って弦をのこぎり引きしなければならないのかわからなかったのです。おまけに、ヴァイオリンの先生はヘビー・スモーカーで、レッスン室には煙草の臭いがたちこめていました。それで、先生がヴァイオリンかピアノかどちらを究めるのか選びなさいと言ったとき、私は迷わずピアノを選びました。
(焦) : あなたはどうしてソ連に行って学ぶことになったのですか?
(ポ) : ロシアのある先生がユーゴスラヴィアでマスタークラスを開き、私と何人かの学生が彼に演奏を聴かせました。その後、彼は私の両親に、私にはとても才能があり、モスクワのような音楽文化の高い所で真剣にピアノ演奏を学ぶべきだと伝えました。慎重に考えた結果、母は私がモスクワに行くことを決めました。それで私は1970年にモスクワに行き、入学試験を受けて中央音楽学校に入り、ティマーキンの下で学びましたが、このとき、私は大きな衝撃を受けました。ユーゴスラヴィアでは、私のピアノ演奏はなかなかなものだったのですが、モスクワに来てみると、クラスの誰もが私より上手く弾くことに気づいたのです。私は小さい頃からとても向上心が強かったので、この状態に気づくと優れた友人たちを目指して一段と猛練習に励み、同級生のレベルに追い付き、やがて追い越しました。私はここで5年間学び、後にモスクワ音楽院に進みました。
(焦): あなたはソ連の学校システムの中で、ネイガウスとイグームノフに師事した教師の下で学んでいますが、いわゆる「ロシアン・ピアニズム(ロシアピアノ楽派)」を、どのように見ていますか?
(ポ): 私の受けたテクニックの訓練は、いわゆる「ロシアピアノ楽派」のそれとは大きな違いがあります。実は、私はネイガウス等の人たちを「ソ連楽派」と呼んでいますが、これは既にソ連の時代になっていたからです。私自身のテクニックは妻のアリス・ケゼラーゼ(Alice Kezeradze)に由来するもので、これはベートーベン、リスト系統の楽派で、帝政ロシア時代はサンクトペテルブルグに根を生やしていて、やはり「ロシアピアノ楽派」に属します。もちろん、ティマーキンは、イグームノフもかつてリストの伝統を学んだと私に言いましたが、音楽のとらえ方はサンクトペテルブルグ楽派とは違っていて、ケゼラーゼが私に教えたのは、きわめて純粋なサンクトペテルブルグ楽派のものだったので、私には両派の違いがわかります。
(焦): サンクトペテルブルグを「ロシアピアノ楽派」の中心と紹介してもいいでしょうか? また、この楽派はケゼラーゼ夫人の故郷のグルジアにどのようにして伝わったのでしょうか?
(ポ): ピョートル大帝がサンクトペテルブルグの建設を開始して以来、ロマノフ王朝はひたすら西欧文化を学ぼうとしました。ロシア帝国は西欧の傑出した人材をサンクトペテルブルグに招くために力を尽くし、ヨーロッパ文化の精華を学ぼうとしました。そのような状況の中で、レシェティツキがペテルブルグで教えることになりました。彼と彼の生徒でもあった妻のエシポワが、ペテルブルグにおいて非常に優れた、そして厳格な教育システムをつくり上げました。後にルービンシュタイン兄弟の助けを受けて、兄アントンはサンクトペテルブルグ音楽院、弟ニコラスはモスクワ音楽院をつくりました。ケゼラーゼの先生のNina Pleshtcheyeva は、グルジア生まれの非常に優れたピアニストで、選ばれて特別教育を受けた天才的な音楽家でした。彼女は幸運にもシロティについて学ぶことができました。シロティはラフマニノフの母方の従兄弟です。彼はラフマニノフより幸運で、晩年のリストについて学び、より良い教育を受けることができました。Pleshtcheyeva はサンクトペテルブルグ音楽院できわめて優れていたため、卒業後、引き留められて教師を務めました。彼女はレーヴィン夫人の非常に良い友人であるとともに、グラズノフ院長の恋人でもありました。
「十月革命」後の政治状況の悪化により、彼女は仕事を失い、サンクトペテルブルグに留まることができず、やがてグルジアに戻り、若いピアニストを教えることになりました。ソ連が成立してからは、サンクトペテルブルグはレニングラードと名前を変え、その重要性が低下しました。これはすべての資源が首都モスクワに移動したからです。しかし、サンクトペテルブルグの音楽教育と「ロシアピアノ楽派」は、むしろグルジアで保存されました。Pleshtcheyeva 以外に、グルジアのピアノ教育におけるもう一人の重要人物はアナスタシア・ヴィルサラーゼで、現在有名なピアニストのエリソ・ヴィルサラーゼの祖母で、彼女もエシポワの弟子でした。
(焦): 「リスト-シロティ」の楽派には、どのような特色がありますか?
(ポ): 「リスト―シロティ」楽派を語る前に、「ベートーベン―リスト」楽派について先ず考えなければなりません。なぜベートーベンなのでしょうか? ベートーベンはピアノの巨匠であるとともに、他の楽器も演奏できました。彼は幅広い趣味を持つ作曲家であり、ピアノ音楽をつくるだけでなく、交響曲をつくることもできました。さらに、交響曲の発展のために、革命的な道筋をつくりました。ベートーベンは歌手の伴奏も好きで、声楽への愛好は、ピアノソナタの次々に現れては尽きることのないアリアやアリエッタに反映されています。リストは、ベートーベンのピアノ芸術の最もすぐれた部分を学びました。リストの人生は次の三段階に分けられます:第一段階、超絶技巧のピアノの神童。第二段階、ダグー夫人(Marie d'Agoult,1805-1876)と同居。ダグー夫人は作家であるとともに、ピアノを巧みに演奏し、リストとの間に3人の子供をつくりました。第三段階、リストはワイマールに住み、後進を教えました。シロティは幸運にも、晩年のリストについて3年間学ぶことができました。これはリストが最も経験を積み、そして最も創造力のあった時期でした。リストは一生を通じ、ピアノのテクニックの発展に尽くしました。12曲の《超絶技巧練習曲》(etudes d'execution transcendante)について言うと、私はこの曲の1839年版手稿をマジョルカ島のショパン博物館で見たことがあります(WIKIPEDIAでは、超絶技巧練習曲は1826年に初稿出版、1837年に改訂版出版、1840年にマゼッパを改作、1852年に第3稿を出版。現在最も多く演奏されるのは第3稿)。演奏者に仏陀のような手がなければ、この作品を弾けないと私は思います。しかし、たとえ1839年版があまりに複雑だとしても、私たちは、この若く、並外れた天才的芸術家が、いかにピアノ奏法に管弦楽的効果を生み出したかを鑑賞することができます。私たちが現在知っているのは、1852年版で、これは1839年版の簡略版です。しかし、この簡略化の過程で、リストは豊かなピアノ技法を発展させました。これには、手の形や移動テクニックを含み、とくに後者はベートーベンの作品から学び取ったものです。
(焦): 「移動テクニック」とは何ですか?
(ポ): ベートーベンは主に弦楽器の演奏経験からこのテクニックを学びました。特にチェロの演奏経験からです。チェロを演奏する時、左手は自然になめらかに位置を換えなければなりません。ベートーベンはこの経験から、右手の位置を保ちながら、同時に左手をうまく頻繁に移動させることを学び、そのテクニックをピアノ演奏に使いました。ピアニストとして、また作曲家として、リストのピアノ芸術の主要テーマは、管弦楽的で、声楽的なピアノ演奏の追及にあります。ベートーベンの移動テクニックと融合することにより、リストは左手を右手同様に重要なものに変え、右手と同様にメロディーラインと管弦楽的効果を表現させることができるようにしたのです。このような左手のテクニックは、リスト・スタイルのピアノ演奏の基礎をかたちづくり、リストはあらゆる可能な音色と音色のグラデーション、ペダリングのテクニックを要求しました。これはまさに、リストが晩年にますますベートーベンの音楽に近づくとともに、ベートーベンの作品を常に演奏した理由です。
(焦): しかし、リストはベートーベンの弟子のチェルニーに師事したのではないですか? チェルニーのテクニックはやはり伝統的なもので、指の移動の点では水平面の鍵盤テクニックを重視しています。これはリストとかなり大きな違いがあります。
(ポ): リストは物事を捨て去ることができない芸術家で、いつもできる限り多くのものを吸収しようとしました。彼はチェルニーの最も優れたテクニックを吸収しました。これは完璧な指のテクニックです。彼の《三つの演奏会用練習曲》(Trois eudes de Concert)はチェルニーの影響とテクニックを反映しており、リストがすでにそれを自分の音楽言語とテクニックに転化していることを示しています。このほか、リストがいつも旅をする芸術家であり、常に見聞きしたことから学んでいたことを強調しなければなりません。実際、この時代の多くの作曲家は、皆そんな生活でした。彼らの作品は、民族音楽と各地の言語の影響を受けています。昔の旅行は現在と比べ、はるかにゆっくりとしていて、人々は旅行した場所でしばらく生活し、土地の言葉を学んだりしたものです。このような生活経験は彼らの音楽を豊かにしました。ショパンの作品に、スペインとポーランドの影響があるように……。
(焦): スペインの影響もあるのですか?
(ポ): もちろんです。最近の研究が示していますが、ジョルジュ・サンド(George Sand,1804-1876)は素晴らしいスペイン語を書き、スペイン語で文章を発表もしています。ショパンとジョルジュ・サンドはスペイン語を話すことができました。これはスペイン語が当時のフランス貴族の言葉だったからです。皇室や貴族のような人達は召使に彼らの会話の内容を知られたくなかったので、スペイン語を話しました。ロシアやドイツの貴族がフランス語を話したのと同じです。私たちは作曲家が旅行中に見聞を広めるとともに言語を学んだことをしっかりと心に留めておかなければなりません。そうすれば、彼らの作品の中にさまざまなモチーフを見つけることができます。私たちはプロコフィエフの《ピアノコンチェルト第2番》にジャズを聴き取ることができます。これは不思議でしょうか? 不思議なことはありません。これは、プロコフィエフがかつてアメリカを巡回して演奏したことがあるからです。また、ラフマニノフのピアノコンチェルトにもジャズを聴き取ることができます。プロコフィエフの《ピアノコンチェル第3番》には黒海のモチーフがありますが、これは彼がグルジアに行ったことがあるからです。バルトークは、様々な民族音楽を彼の作品に活かしていますが、ベートーベンやシューベルトも同様です。つまり、人々が各地を訪れて異国情緒とその国の最高のものを楽しんだ時代だったのです。ヴェネチアがかつて中国の絹織物と茶葉に狂奔したことを思い出してください。この時代の人達の好奇心が、我々よりはるかに勝っていたことに思い至ることは難しくありません。
(焦): リストの下で学んだピアニストは多いのですが、なぜ彼のたくさんのドイツの弟子が彼の特殊なテクニックを学ばなかったのでしょうか?
(ポ): 芸術は、政治的動乱の中ではうまく発展しません。リストがワイマールにいた頃、ドイツはまさに統一の途上にあり、戦争が止むことはありませんでした。幸いに、リストは国際的な人物だったので、各地から学生が引き寄せられて来て、彼の下で学びました。この中に、シロティもいました。そして、シロティは非常に真面目にリストの下で学びました。しかし、シロティがロシアに戻ってから、第一次世界大戦と「十月革命」がすべてを破壊してしまいました。Pleshtcheyevaが、なぜサンクトペテルブルグ音楽院を離れなければならなかったのか知っていますか? 彼女は、当時の皇室の言語のフランス語が喋れたからということだけで、追い出されてしまったのです。ソ連体制下で生き延びるために、彼女は当局の政策に従わざるを得ず、夜、子供と労働者にピアノを教えました。レニングラード(サンクトペテルブルグ)が包囲されているとき、彼女はグルジアの首府のトビリシに戻り、ピアノを教えましたが、彼女のすぐれた才能が妬まれため、学校で教えることはできず、子どもたちを教えることができるだけでした。これはケゼラーゼにとっては幸運となりました。というのは、彼女は小さい頃からこの偉大なピアニストについて学ぶことができたからです。しかしながら、ソ連を逃げ出した音楽家の方が幸運だったでしょうか? これはわかりません。革命の後、たくさんのロシア人音楽家がアメリカに住みつきましたが、アメリカは消費主義が真っ盛りで、音楽家たちは皆、アメリカではやたらと速く演奏しさえすればいいことに不満を抱いていました。ホロヴィッツはアメリカでは、聴衆が好まないので、抒情的な作品を弾けないことに不満を持っていました。彼は魚が水から出るように、自分の環境を離れてしまったのです。どうしたらうまくやっていけたのでしょうか? このような聴衆を前にして、ラフマニノフですら演奏会を嫌っていましたが、生活のために、やらざるを得ませんでした。プロコフィエフはこれを見るとすぐに故郷に戻ることを決めましたが、ソ連は彼に政治宣伝の音楽を書くことを求めました……。このような悲劇が、伝統と伝承をすっかり破壊してしまいました。
(焦): 「リスト-シロティ」の演奏の奥義がそんなに伝わりにくかったとは、本当に想像できませんでした。
(ポ): 私にとっては全く不思議ではありません。とても多くの偉大な事物が歴史から消え去りました。北宋について言うと、汝窯は20年間存在しただけですが、ここで焼かれた「雨上がりの青空のような」釉薬の秘密は失われてしまいました。私の家族はかつてイタリアのペルージャ(Perugia)から受け継がれた、「吹き金」製造法の奥義を習得していました。これは、金を吹いて膨らませる技術で、金を気球にすることができましたが、やがて失われてしまいました。私に言わせれば、いわゆる「水上歩行」も伝説ではないと思います。過去には本当にこの技術が存在したのですが、その奥義は現在失われてしまったのです。
(焦): ケゼラーゼ夫人はPleshtcheyevaだけから学んだのですか? 彼女は当時どのようにピアノと音楽を学んだのでしょうか?
(ポ): こういうことなのです。私の妻の家はとてもおもしろい家柄です。彼女の家族はDesten王朝に属し、グルジアという国の歴史は1000年を越えてないのですが、彼等は3000年前にグルジアの地に町を建設しました。彼等は港を造って貿易を行い、悠久の文化を重ね、一族には高度な教育がありました。第二次世界大戦の時、彼女の父親はスターリンに捕えられ、やっとのことで、命や地位は保つことができましたが、首府を離れなければならなくなりました。それで、彼女の父親は他の都市で教育に携わり、大学を創りました。彼女の母親はピアニストで、イグームノフに学びました。ですから、ケゼラーゼは幼い頃から、母からピアノを学び、やがて、Pleshtcheyeva から学び、ロシアのリストの伝統を完全に身につけたのです。彼女のような幸運には、私は巡り会えませんでした。彼女は幼いときから最高のピアノ楽派に触れ、最も良い教育を受けていたのです。彼女には天分もあり、ピアノを長く学ぶ最も良い、最高の奨学金をもらいました。そして、大学院の卒業証書をもらう前に、既に大学から教職に就くよう頼まれるほどのレベルに達しました。彼女は卒業の時、シューベルトの「さすらい人幻想曲」(Wanderer Fantasy)、プロコフィエフの「ピアノコンチェルト第7番」、バーバー(Samuel Barber,1901-1981)の「ピアノソナタ」を弾きました。当時ソ連では、誰もこのアメリカの作曲家の作品を聴いたことがありませんでした。
(焦): シロティはアントン・ルービンシュタインとリストの両方から学びました。彼はかつてインタビューで、アントン・ルービンシュタインは偉大なピアニストで教師だったが、リストには及ばないと言いました。しかし、シロティはリストが偉大な理由については語っていません。
(ポ): 答えは簡単です。リストはとても明晰な教師でしたが、アントン・ルービンシュタインは違っていました。彼は直観と天分の人でした。これは、なぜかモスクワ音楽院の大先生達も同様で、彼等はそのテクニックを伝えることができず、有名なネイガウスもそうでした。ネイガウスがしたこと、それは学生を啓発すること、啓発することによって自身が啓発されることでしたが、これは決して教えることではありません。彼は非常に芸術的な人でしたが、大教室での授業では無駄話をたくさんしました。これは、なぜネイガウス派がすでに途絶え、彼の芸術とテクニックが、彼の逝去とともにすべて消失したかということの理由です。もし私が知識を伝えたいと思うなら、私自身が非常に明晰でなければなりません。良い教師が教室で話すことは、いつでも実際的で明確な内容でなければなりません。音楽家がマスタークラスを開く理由は、学生に実際的なテクニックと知識を学ばせることでなければならず、昔話や自慢話をだらだら話すことではありません。ピアニストがマスタークラスでブラームスがどのようにクララ・シューマン(Clala Schumann, 1819-1896)と昼食を共にしたかを話すなら、聴衆は好奇心から拝聴してもよいし、悪いことではありません。しかし、これは決して教えるということではありません。というのは、このような話は、ブラームスの音楽あるいはクララの演奏テクニックの情報と知識に関して私たちに何ももたらさないし、楽譜と無関係な情報を増やすだけです。これは非常に危険です。悪いことに、現在、マスタークラスの大部分は無駄話ばかりです。人々は既にこのような偽物の知識に飽き飽きしており、真の知識を学ぶ必要があると思います。
(焦): 今までのお話で、あなたは「楽派」というものをどのように考えているのか知りたくなったのですが……。
(ポ): 「楽派」は先人の智慧の集積であり、天分に頼るだけでは到達できない能力です。たとえばグールドですが、彼は驚くべき天才ですが、天賦の直観的な優れた才能持っていただけで、しっかりとした楽派の教育がありませんでした。このため、彼は晩年には次第に挫折を感じるようになり、最後には異常な方法で録音しました。グールドには、優れた才能がありましたが、彼の演奏から学ぶことは何もありません。どうして私はブルース・リーを20世紀で最も偉大な芸術家と認めているのでしょうか? これは、彼が人々に学習に対する尊敬をもたらしたからです。彼の映画の主題は全て主役が自己犠牲を通じて学習し、学習を通じて自己を鍛え、そして戦います。自己の絶えざる向上により、完全な美に近づきます。「完全な美」は決して存在しません。神のみが完全な美であり、私たちは人間です。しかし、私たちは進歩し、向上することが必要です。進歩を止めることはできません。退歩を望む人は誰もいません。私たちはネイガウスを責めることはできません。彼もまた完全な美と進歩を追求していたからです。ただ方法が間違っていました。私たちはネイガウスとグールドの才能を尊敬することはできますが、彼らの才能から何かを学ぶことはできません。
(焦): それでは広い意味で、「ロシア楽派」と「ソ連楽派」との最大の違いは何でしょうか?
(ポ): 簡単に言うと、サンクトペテルブルグを中心とする「ロシア楽派」は解釈とテクニックの細部にわたる琢磨を重視し、質が量に勝っています。モスクワを中心とする「ソ連楽派」は大量かつ広範な曲目に力を入れ、量が質に勝ります。このような変化とソ連の政治環境とは強い関連があります。ネイガウス自身の演奏はロシアの伝統に属していますが、彼の生徒、たとえばギレリスやリヒテルは、ソ連の生活が優れていることを体現し、季節ごとに何曲かの新しい曲目とコンチェルトを演奏することを迫られ、ひとつの曲を完全に弾きこなすことはまったくできませんでした。これはひとりの女性が年に20人の子供を産むのと同じようなものです。ギレリスとリヒテルはいずれも非常に優れた才能の持ち主であったにもかかわらず、国家に自己犠牲を要求され、優れた才能を消耗させてしまったことは、非常に残念です。私に言わせると、ネイガウスの核心は、響きの追及、楽曲の文学的解釈、音楽的思想と芸術的イメージにあります。正しい方法は、まず音色とテクニックを身につけ、思考を経てから芸術的イメージを創り出すべきです。しかし残念なことに、ネイガウスの学生は速く学ぶように圧力をかけられ、あえて反対の方向に進みました。彼等はまず芸術的イメージをつくり、彼等の出せる音を使って演奏しました。しかし、これはしばしばあまり芳しくない結果をもたらしました。あらゆるところで国家が宣伝し、学生たちはギレリスやリヒテルのようなソ連のピアニストを尊敬しなければならないと言われていました。ときには、彼等が学校に来て演奏しましたが、準備不足であまり良い演奏ではなかったにもかかわらず、学生たちは皆彼らを崇拝するように定められ、どのように弾こうと、大きな拍手をしなければなりませんでした。ピアニスト本人は何の考えもないと私は思いますが、国家の機関が背後でコントロールしていました。イデオロギーが全てを主導し、政治思想のコントロールは楽曲にも及んでいました。たとえば、私たちは試験でラフマニノフの「ピアノ協奏曲第4番」を弾くことはまったく不可能でした。西側の影響を受けた腐敗した作品と見なされていたからです。プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」のモチーフはアメリカ文化の影響を受けていますが、当時はこのような議論は絶対に禁止されており、議論の余地は全くありませんでした。
(焦): ギレリスとリヒテルは、いずれも表現にもの足りない時期もありましたが、彼等がソ連の最も傑出したピアニストであることは疑いなく、彼等以外に誰を認めることができるでしょうか?
(ポ): その通りです。私が1983年にパリでプロコフィエフの「ピアノソナタ第6番」を演奏した時、プロコフィエフの未亡人がとても興奮して、楽屋の私を訪ね、「亡夫がこの曲をあなたに献呈できたら良かった」「でも、彼はあのとき、この作品をリヒテルに初演させたの。彼は、ああいう演奏が好きだったらしいわ」「あなた、あの頃は、それ以上のピアニストはいなかったのよ」と言いました。あの時代のソ連は、ギレリスとリヒテルが最高の模範でした。ところで、私の評価について、みなさんに誤解してもらいたくないのですが、こういう例を挙げて、あの時代を説明しただけなのです。
(焦): しかし、ソ連体制は国家が後押しして、すぐれた才能を育成したのではないですか? 西側から見れば、これはやはり恵まれた教育です。
(ポ): 実際は、以前の帝政ロシア時代の音楽教育の方がしっかりしていたと言えます。ソ連時代よりはるかに優れています。以前、ロシアの音楽院の修業年数は9年でした。現在は博士だけが9年学びますが、以前のサンクトペテルブルグとモスクワ音楽院の全ての学生は、大学相当の卒業に9年間が必要でした。ピアノ専攻の学生はその他の楽器も勉強しなければならず、声楽、指揮、作曲等の専攻は、ピアノの調律の仕方まで学ばなければなりませんでした。このような教育は、学生にきわめて強固な能力を身につけさせます。ソプラノのNina Koshets(1894-1965)は、ラフマニノフの愛人で、彼の歌曲作品38を献呈された人であるとともに、超絶技巧の声楽家です。しかし、彼女がモスクワ音楽院卒業の時、バッハの48曲の「前奏曲とフーガ」とベートーベンの32曲のピアノソナタを弾いたなんて、想像できますか? Pleshtcheyeva は、コンサートで、前半で歌い、後半でピアノの派手な大曲を弾きました。彼女たちは最も良い教育を受けた人たちです。しかしソ連は革命の後、お金をケチるために音楽院の課程を5年間に短縮しました。予想通り、何もかも変わってしまいました。私がまだ学生だった頃、モスクワで展示されていた中国のある工芸品を見たことがあります。それは祖父から孫まで三代を費やした精緻な細かい彫刻で、中から外まで29重ねの象牙の球でした。これは、恐らく世界で最も精緻で複雑な芸術品だと思います。たったひとつの過ちが、祖父、父、子が3代にわたって心血を注いだ労作をぶち壊してしまう危険性もあったのですから。私はこの象牙の球と、それが私に与えた大きな驚きを永遠に忘れることはできません。ひとつの作品の中に、自分自身のすべてを捧げた人がいたのです。知識も、テクニックも……。それが学習です! モスクワ音楽院では、教師はリヒテルを手本にして学生を鼓舞し、1週間で3曲のコンチェルトを練習させ、ステージで演奏させました。何を考えていたのでしょうか? それは、カラヤンがかつて毎週1枚の新録音をしたようなもので……、あれも何を考えていたのでしょうね? そのような録音が後世に残るものなのでしょうか?
(焦): どのようにしてケゼラーゼと知り合ったのですか? 「伝説」によれば、あなた方は、あるパーティーで知り合ったということですが……
(ポ): あれは、彼女の前の夫の誕生パーティーでした。彼女の前の夫は重要なポストに就く外交官で、ソ連ではきわめて強い影響力を持っていました。彼の父も著名な科学者で、国防部の科学研究開発を担当し、冷戦時の最も重要な人物のひとりでした。当時、私は知らなかったのですが、彼らは既に別居していて、4歳の子供のために暫く婚姻を続けることを望んでいたようです。
(焦): そのとき、あなたは何を演奏したのですか?
(ポ): 私はべつに演奏したわけではなかったのですが、ただ興に乗って何かの作品の一節を弾きました。ケゼラーゼは、それを聴いて私に近寄ると、「こんなふうに弾いてみたら……、この姿勢はちょっと変えたらどう?」と言いました。この簡潔な話の中から、私は即座にこの言葉が深い研究に基づいていることに気づきました。私は、「あなたはとても良くわかっていますね! あなたの知識は絶対にモスクワからではないでしょう!」と言いました。これには、かえって彼女がびっくりしました。そして、私は言いました。「あなたは、ピアノを教えているのですか? もしそうなら、私があなたに学ぶことができるでしょうか?」彼女はこれを聞くと、さらに驚きましたが、「この学期はすぐに終わるので、夏が過ぎてからあらためて来なさい」と言いました。秋が来ると、私はすぐに彼女のレッスンを受けるようになりました。
(焦): その時、あなたは何を準備して行ったのですか?
(ポ): 私はベートーベンのソナタの1曲を準備して行きました。私は全楽章を弾けるようになりたいと思っていました。驚いたことに、彼女は一言話し始めると、そのまま4時間ぶっ続けで教えました。レッスンが終わると、私は疲れて動けないほどでした。彼女に学ぶのは本当に勇気と気力が必要で、さもなければ彼女の教え方を受け入れられなかったでしょう。つまり、それは私がこれまで知っていたピアノ演奏とは完全に違っていたのです。ところが、ひとたび彼女が示すピアノ演奏の奥義を知ると、正しい道をたどっていて、苦労して学ぶ値打ちがあることがわかりました。私は飛びたかったのですが、飛び方を学ぶ前に、歩けるようになる必要がありました。
(焦): その時は、まだゴルノスターエヴァのクラスで学び続けるつもりだったのですか?
(ポ): そうです、でも名義だけに過ぎません。モスクワ音楽院の最初の1年はとても不愉快で、全く何も学ぶことができず、完全な時間の浪費だと思っていました。モスクワを離れたいと思っていたとき、ちょうど、ケゼラーゼに出逢ったのです。これが、モスクワに留まった唯一の理由です。その後、学校の最後の1年間はマリーニンのクラスに替わりました。やはり名義だけの彼の学生であったとはいえ、マリーニンはとても良い人であったと言わなければなりません。残念なことに、彼とティマーキンは何年か前に亡くなり、ひとつの時代が終わりました。
(焦): 何年か前、あなたはドイツのツァイト紙(Die Zeit)のインタビューで、ケゼラーゼ夫人の最も重要なレッスンの成果を次の4項目にまとめています。第一、容易に完全なテクニックをマスターできたこと。第二、ピアノの音色の発展をはっきりと知ることができたこと。特に19世紀末から20世紀初頭までの発展と、ピアニストや作曲家の研究成果を。これらの作曲家は、ピアノが人間の歌声のような音を出せるとともに、オーケストラの多種の響きも備えていることを知っていた。第三、現代ピアノの各種の性能の理解。とくに豊富な音色をいかに運用するかを学んだこと。第四、異なる音楽スタイルの明確な区分と把握。私は特に現代のピアノについて、あなたに教えていただきたいと思うのですが、ネイガウス等が使ったのは、全てベヒシュタイン系統のピアノで、現在のスタィンウェイとは異なると思います。それは、ピアニストの技巧と音色に絶対影響すると思うのですが……。
(ポ): 実のところ、私もベヒシュタインを使って演奏してもいいのですが、あれは異なるテクニックの基礎とピアノの知識の上に出来上がっている楽器です。現代のピアノは重くなっていますが、性能は良くなっています。ただし、弾きこなすのは、難しくなっています。しかし、その性能に焦点を合せてテクニックの問題を克服できれば、豊富な色彩と表現力を引き出すことができます。
(焦): それではペダルの使用については?
(ポ): できる限りペダルを使うべきですが、これには音の明晰さとメロディーラインを絶対に壊さないという前提があります。多くの人がペダルを使いますが、メロディーラインを壊さないペダルの使い方を知りません。メロディーラインを壊すことは、音楽を壊すことです。たくさんの音楽家は本能に頼っていて、学習したことに頼って演奏してはいません。彼らは非常に音楽性のある演奏ができますが、作品として言えば、やはり不合格です。
(焦): マスタークラスで、あなたは読譜に非常に重きを置いていて、1小節といえどもおろそかにしません。楽譜の読み方について、簡単にお話いただけませんか?
(ポ): 最も基本的なことは、ひとつひとつの音符の長さを正確に読み取ることです。各音の持つべき長さを知った後、音の前後の重なりを知ればよいでしょう。続いて各声部の区別、表現の方向を考え、表情を加えます。これが全部できたら、作曲家のその他の指示を検討します。演奏家であれば、必ず楽譜を尊重しなければならず、さらに、いかに正確に楽譜を読むかを学ぶ必要があります。作曲家は非常に抽象的な音楽の言葉だけで彼らの考えを表現しているので、もし、私たちがそれを読みこなせなければ、音楽はその真の姿を失います。
(焦): しかし、作曲家の指示に私たちが本当に全面的に従うことができるでしょうか? 先ほど旧式のピアノとペダルについて語り合いましたが、リストは「メフィストワルツ」の冒頭で、14小節の長いペダリングを指示しています。これは、当時のピアノならば、このようなペダリングが適したものだったのでしょう! でも、もし私が現代のピアノでリストの指示通りに弾くと、恐ろしい音になるに違いありません。
(ポ): あなたの挙げた例には、大きな間違いがあります。あなたがペダル記号を見るとき、特にひとつの長いペダリングの指示があるとき、その意味は「ひとつの連続したペダリング」ではなく、「そのペダル記号中、演奏者はペダルを使ってよいし、各種のペダリングを使ってよい」と言っているのです。ペダリングには色々な種類があります。たとえば「ハーフペダル」は、演奏者がペダルを踏み込んだ後、半分戻し、低音を引き延ばすけれど異なる響きが混ざらないようにします。「クォーターペダル」は、ピアニストが低音を引き延ばすとともに、音の振動を利用して響きをクリアにする、或いは濁った響きを避ける。ペダル記号は、レストランの喫煙ゾーンのようなものです。非喫煙ゾーンでは喫煙はできませんが、喫煙ゾーンに来れば1本吸っても、2本吸っても、吸わないでも構わない、喫煙ゾーンで毎分毎秒喫煙し続けなさいということではありません。このほか、しばしば起こる読譜の問題は、「スフォルツァンド」(forzando)です。「スフォルツァンド」記号の本当の意味は、大きな音で弾いたり、語気を強めるということではなく、「強調」するということです。これは、ベートーベンの作品の中で、「スフォルツァンド」記号は音符の前に置かれており、音符の上ではないことの理由です。すなわち警告の表示、演奏者に次に強調が必要なことを気付かせる警告の表示のようなものです。どんな強調のやり方であっても、演奏者はさまざまな種類の方式で強調してよいのです。スタッカート(Staccato)は、通常は気分の指示であり、絶対に演奏する音の長さの半減ではありません。残念なことですが、20世紀の大多数のピアニストが正確な読譜の知識を失っており、この結果、作曲家の意図を間違えて理解しています。
(焦): あなたは、ピアノの音色を完全にコントロールして、たちどころに必要な響きを奏でることができます。どうやって、その域に達したのですか?
(ポ): ずいぶん前に、フィラデルフィア管弦楽団とラフマニノフの「ピアノコンチェルト」で共演したとき、オーケストラのクラリネット首席奏者が自宅で練習を重ねて、ようやくピアノと対話ができるようになりました。リハーサルの後、彼が私に様々な音色をつくる秘訣は何かと尋ねたので、私が弾いた音は全て「計算した響きです」と答えました。私の演奏では、無作為に出て来た響きはひとつもありません。全ての響きは、まず私の頭の中に現れ、思考を経て私が演奏します。これは「カンフー」です。カンフーの名人が煉瓦を割る時、手を下す前にどれだけの力が必要で、どの角度で煉瓦を割るのか、また煉瓦を割る時と材木を割る時との違いも知っているに違いありません。同じ道理で、ピアニストとしての私の技量は、各種の音色をつくりだす知識と研究に基づいて、絶えず練習を続けることによって支えられているのです。
(焦): ケゼラーゼ夫人は特定の作品を使って、あなたに響きのコントロール能力を訓練したのですか?
(ポ): ラヴェルが彼女の最も好きな作曲家で、彼女はラヴェルをとても深く研究していました。1979年の夏、彼女は「夜のガスパール」により私を訓練し、私のテクニックを更に高い領域に向上させ、響きを完全にコントロールできるようにさせるとともに、音楽の構造を深く把握させました。これは、私がプロフェッショナルなピアニストとして、テクニックを発展させる非常に重要な第一歩でした。その頃彼女は、私がすぐに「高雅で感傷的なワルツ」(Valses nobles et sentimentales)を練習することを望んでいましたが、私はこの曲に対して当時あまり興味が持てず、何年か放置した後に学びました。これもまた、私のピアノ演奏テクニックの向上に大きな影響を与えた作品で、とくに様々な音色と音響の表現の点で大きな成果を上げました。
(焦): あなたは、いつもどのように新しい作品を準備するのですか?
(ポ): 私は非常に厳格に、真面目に且つ正確に、時間をかけて楽譜を精読してから、音楽をひとまずおいて、思考にふけります。正確な譜読みは、正確な結果を導きます。私が台湾のマスタークラスで、学生にリストの「メフィストワルツ」の演奏を指導していたとき、すべての人は私がこの曲を弾けると思っていました。実は、私は2年前に真面目にこの曲の楽譜を読んだことがあるだけでした。マスタークラスの前にこの曲を弾いたことは無かったのですが、その中の非常に速く難しい部分を、その場でほとんど演奏することができました。これは正確な譜読みの成果です。思考の論理は天分からもたらされるものではなく、教育からもたらされるものです。もし私が楽譜を精読してからその作品を演奏すると決めたのなら、多くの困難に出会ったとしても、ほぼ上手くやれます。ベートーベンの31曲のピアノソナタを学んでも、32曲目が簡単な曲に変わることはありません。ピアニストは、依然として32番目の曲の新たな問題に向き合わざるを得ません。音楽、或いは人生にしても、その中にはいつも困難があるはずで、私たちは学習し、進歩することで、そのような困難を克服しなければなりません。
(焦): もう既に何度も尋ねられたと思いますが、私にはまだ強い関心があります。あの時のショパンコンクールで、何が起きたのでしょうか? 私は、これは20世紀で最もセンセーショナルな音楽事件のひとつだと思います。
(ポ): あのときのコンクールの第1位は、実際は、あの年の4月にソ連によって「決定」されていました。あの頃、ソ連の文化部の下部に国際コンクール組織があり、専門にソ連のコンクール参加者のすべての「面倒を見て」いました。私はショパンコンクール参加前に、1978年にイタリアのカサグランデ国際コンクール(Casagrande Competition)で第1位となり、1980年にカナダのモントリオール国際コンクール(International Music Competition in Montreal)でも第1位となっていました。モントリオール国際コンクールの後、モスクワに戻りましたが、チャイコフスキー音楽院のピアノ科主任のドレンスキーが私に会いに来て、私にショパンコンクールを捨てるように「提案」しました。彼は、私が彼らを妨害さえしなければよく、まだ誰を推すか人選していないので、1982年のチャイコフスキーコンクール第1位と交換できると言いました。私は、「ありがとう」と言って別れました。今まで、私はモスクワで音楽会を開いたことは全くありません、というのは、あそこの人たちは誠実ではないので、あそこで演奏したくないのです。
(焦): あなたがショパンコンクールの準備をしているとき、自分の芸術的性格の一部を隠そうとは思いませんでしたか? あなたは自分の大胆な解釈が排斥されると思ったことはないのですか?
(ポ): そういう教育を、私は受けていません。芸術の世界では、一度引き下がると、自分の信念を保つことができず、再び取り戻すことは困難です。人生もそうです。私の妻が最も良い例です。彼女は夫の姓を名乗ったことはなく、自分を「ポゴレリッチ夫人」とは呼ばず、いつも「ケゼラーゼ」の名で生きていました。この名前には、大きな意味があります。彼女は、グルジアの公主の子どもで、当時の貴族は胸を美しく保つために、自分では乳をやらず、子どもを田舎の丈夫な乳母に渡して養育させました。それで、「ケゼラーゼ」というのは、実は彼女の乳母の姓なのです。しかし最終的に、この姓がスターリンの迫害から身を隠す助けになり、ソ連時代には、これは彼女の秘密で、他人に話すことはありませんでした。私と彼女は同じような信念を持っており、時局がいかに険悪であっても屈服せず、自分に忠実でなければならないと思っていました。自我を保つことは、人間の最も難しい挑戦です。私はショパンコンクールで、カサグランデ国際コンクールやモントリオール国際コンクールと同じように準備し、このコンクールのために特別の考えを持ちませんでした。つまり、何も隠さず、奇をてらうこともなく、私の音楽の見方と考え方を示しただけです。
(焦): あなたは、自分がコンクールであんな大騒ぎを引き起こすと思っていましたか?
(ポ): そんなことは思ってもいませんでした。しかし、私が10年いた国家が、あらゆる手段で私に圧力をかけ、様々な汚い手段を使うとは予想もしていませんでした。実際、私が第1次予選を弾き終わると名前は消されていて、もともと第2次予選に進むはずではなかったのです。
(焦): しかし、あなたは第2次予選でも弾くことになりましたね? それは、どういうことだったのでしょうか?
(ポ): もともとの公表用リストでは、私はすでにふるい落とされていました。リストが公表されるとき、カナダを代表する審査員が先にリストを見ました。彼はモントリオール国際コンクールの審査員でもあり、リストに私の名前が見当たらないのを不可解に思いました。それで、「ポゴレリッチは? 彼の名前がなぜないのか? 」「すみません。私たちが名前を間違って印刷しました」ということになったのです。もし、あのカナダの審査員が見つけなければ、残念ながら私はとっくにアウトになっていて、アルゲリッチが私の演奏を聴く機会はありませんでした。あのときのコンクールで、彼女は開幕音楽会で弾いてから帰ってしまい、第二次予選から審査員に加わったのです。
(焦): ケントナー(Louis Kentner,1905-1987)は、あなたに対する審議を要求しましたね?
(ポ): 私は、その点は知りません。彼はあのときとても不幸で、(というのは)身体の調子が悪く、特に聴力が非常に悪く、(彼の生徒の)4人のコンクール参加者は皆、次の予選に進めませんでした。彼は、コンクールの状況を自分でも理解できていなかったのです。彼の審査員辞任には多くの原因があると私は思いますが、絶対に私が原因ではありません。これは誰かが私を攻撃するための口実だったのかもしれません。
(焦): あなたはショパンコンクールの後、ただちに世界を征服し、世界中のピアニストの頂点のひとりになりました。これはケゼラーゼ夫人のピアノテクニックの力を証明していると私は思います。しかし、不思議に思うのですが、ベートーベンとリストから続く伝統的テクニックであるにもかかわらず、なぜこれまで、ピアニストたちはこのような偉大なテクニックの訓練を無視してきたのでしょうか?
(ポ): このような学習方式は、現代の演奏家に対する要求と完全に正反対なのです。ケゼラーゼの要求を満足しようとすれば、多くの時間が必要ですが、現在の演奏の訓練は、人を機械に変えて、高速で学習することを要求します。今、お話ししたように、ソ連の演奏システムは、約3ヶ月の間隔で新しい演奏プログラムを練習し終えることを要求します。現代の人々が最も多く称賛することは、ピアニストの誰々は午後楽譜を手にすると、夜にはステージで演奏できるというようなことです。多くの人々がそのような演奏の仕方を賛美すべきものと見做しますが、私はそのような演奏には全く興味がありません。というのは、これでは音楽家に求められる要求に全く応えられないからです。私も1週間で大きな作品を学び終えることができますが、ステージで演奏することはできません。というのは、そのようなやり方は自分を欺き、作曲家を欺き、聴衆を欺き、音楽をも欺くものだからです。私はそのような人間とは全く異なります。私がラフマニノフの「楽興の時」を準備したとき、第2曲のあるフレーズにずっと満足ができずにいました。5年の時間を費やして、やっとうまく弾けるようになりましたが、そのフレーズのために、しばしば8時間も続けて練習したものです。実際、急いで曲を練習すると、やがて記憶のトラブルを引き起こします。私の曲の勉強は、音の記憶と筋肉の記憶の両方ですが、急いで曲を練習すると、往々にして頭をすり減らし、耳の記憶だけで筋肉の記憶はなくなります。これはまた、多くのピアニストが速く弾くことはできるが、遅く弾くことができない原因です。彼らは速く弾かないと思い出せないからなのです。ゆっくり弾くと、彼らはひとつの音符も思い出せません。
(焦): この問題は、学習と商業的なパフォーマンスとの相克から生まれます。
(ポ): 学習の観点では、絶対にひとつひとつの曲を磨き上げなければならない。しかし、演奏活動の観点では、マネージメント会社は若いピアニストに「コンチェルトをどれだけ弾ける? 何曲ある?」と訊き、質より量を重視します。しかし、私が強調しなければならないのは、結局は、音楽芸術は量の多さではなく精緻さに、その成果が現れるということです。多くの人々は山ほど録音しますが、結局どれだけが市場に残るでしょうか。私の曲目はそれほど多くありませんが、どの録音もリリースが続けられていて、毎年相当な売上があります。「少」が「多」に変わっています――皆この問題について考えるべきです。ある有名なピアニストがケゼラーゼの下で学んだことがありますが、とうとう彼女は断念することを選びました。彼女は、「もし私がこの練習方法に従って学ぶとすれば、1年でやっと1ページ程度しか練習できません。私は子供の面倒を見なければならないし、コンサートで演奏もするので、このような練習はできません」と言いました。――彼女は、音楽の要求には到達しなかったけれど、少なくとも誠実です。音楽と聴衆に対しては誠実ではありませんが。しかし、私は音楽の要求に到達しなければなりません、なぜなら、これが楽曲を尊敬する唯一の方法だからです。多くのピアニストが演奏する「展覧会の絵」の「市場」(Limoges)を聴くと、彼らがすべての音を明瞭に弾いていないことがわかります。これは、絶対に楽曲を輝かせるやり方ではありません。一方、これを上手く弾くために、私は何年もの月日を練習に費やしました。
(焦): あなたはケゼラーゼ夫人が亡くなってから演奏活動が大幅に減りました。人生の伴侶をなくしたこと以外に、何か他の原因がありますか?
(ポ): 本当の原因は私の左手にあります。私は1987年にうっかりして、ある種の病気に感染しました。最初は気にとめなかったのですが、やがて左手の指に影響が出て、薬指と小指に力がなくなり、ひどい時は麻痺しました。
(焦): ケゼラーゼには、その問題を解決するための方法は無かったのですか?
(ポ): ここに問題がありました。ケゼラーゼのテクニックのシステムは完璧で、このシステムでピアノを練習していれば傷めることは全くないのですが、私の場合は外部から来た原因で、練習によって傷めたのではないため、彼女はその問題がなぜ生じたのかを理解できず、私が抱えている問題を想像することすらできませんでした。彼女は、私がブラームスの「パガニーニの主題による変奏曲」、ストラビンスキーの「ペトルーシュカからの3章」、ラヴェルの「左手のためのピアノコンチェルト」等の曲の準備をすることを望んでいました。しかし、私は練習を続けることができませんでした。左手の力を保とうとすると、身体の全体のバランスが崩れてしまいました。両手の状態が全く違っていたので、力を抜いて演奏することがとても困難だったのです。私の左手は右手より疲れ易く、あるフレーズを弾くときには指使いを換えざるをえませんでした。この状況は、彼女が亡くなるまでずっと続きました。(1987年から)9年の間、私の状況はますます悪くなりましたが、ケゼラーゼが亡くなった後、速やかにこの問題を解決し、私のテクニックを取り戻さなければならないと思いました。そのときから、私は演奏会をキャンセルし始めました。
(焦):しかし、そういう問題を抱えていたことに、誰も気づいていませんでした。あなたの演奏のテクニックは相変わらず完璧でしたから。
(ポ): 私は自分に対して誠実な人間です。あの時期の録音を聴くと、あの2本の指の表現に感情が欠けていることに気づきます。他の人にはわからなくても、私にははっきりしているので、録音も止めました。
(焦): その後、あなたはその問題をどのように克服したのですか?
(ポ): 私は演奏を減らし、録音は止め、毎日泳いでリラックスしました。そして、あるベトナムの鍼灸師と6年間をかけて、とうとうその疾患を完全に治しました。今は私の左手は正常で、以前よりも強く、そして軽くなっています。これは優れたピアノテクニック、良い演奏システムがもたらした恩恵で、私のテクニックは絶えず成長していて、老化はしていません。多くのピアニストは才能と天分だけでピアノを弾いており、ピアノ演奏の神秘について真剣に考えないので、歳月とともに衰えます。今でも、私は依然として学び続けて、音楽とピアノ演奏テクニックの知識を絶えず増やしています。私は学ぶことを止めることが出来ないのです。
(焦): その経験はあなたの芸術観やピアノのテクニックに影響を与えましたか?
(ポ): そうは思いません。私にとって、それは、ただの医療記録です。しかし、ケゼラーゼの助けがなければ、自分のやり方を見出すために長い時間を費やすことになったことは確かでしょう。彼女が亡くなってから、私はラフマニノフの「楽興の時」とグラナドスの「ゴヤの絵」の練習を始め、再び音楽の道を模索し、自分で答えを探しました。7年間の努力を経て、私はとうとう自分のやり方を見つけ出したのです。
(焦): しかし、あなたの音楽の見方はこの何年かで大きく変わっていて、たとえば、プロコフィエフの「ピアノコンチェルト第3番」の演奏は、以前とまったく違います。
(ポ): この曲に関しては、きわめて込み入った経緯があります。私は、この曲の第1楽章を音楽院の冬季試験のプログラムとして弾き、やがてモントリオール国際コンクールで初めてオーケストラと全楽章弾いたので、この曲とは既に四半世紀の付き合いなのです。何年もの演奏の蓄積と考察を経て、私は現在、より新しい角度からこの作品を見ることができます。特に、この曲の中の様々なモチーフを新しい角度から見ています。プロコフィエフは当時、シカゴでこの作品を初演しましたが、楽曲中には確かにアメリカ音楽の影響があり、私はその影響を表現したいと思いました。私の解釈が変わったので、テクニックもすべて新しくする必要があり、まったく新しい音色を創ってこの作品を演奏しました。ですから、音楽或いはテクニックだけではなく、私の演奏自体が以前とまったく違うものとなったわけですが、それは長年の考察の収穫です。その前にDG(ドイツグラモフォン)が何度かこの作品の録音を提案しましたが、私はすべて断りました。というのは、私は、より新しい弾き方、より深い見方があり得ると思っていたからです。今になってようやく、この協奏曲を録音できると感じました。
(焦): あなたはきっと、すでに多くの人から、その新しい観点がどこから来たのかと尋ねられたことでしょう。つまり、新しい観点が非常に特殊で、極端に言えば、いまだかつてないと言えるからなのですが。
(ポ): 私は私のやり方で、私の受けた教育に基づいて楽譜を理解し、作曲家の思想を表現しています。もし私たちが音楽の中に新しい観点を見出せなければ、それは先人の考え方を繰り返しているのに過ぎず、それでは、音楽に新しい水を注ぎいれることはできません。例を挙げると、「シェークスピアって誰?」――これは簡単な問題ですが、学界には各種の異なる答案があります。しかし、各種異なる答案があっても、シェークスピアを損なうことはなく、むしろ、この文学者に対する新たな見方で、人々を更に惹きつけています。ピアニストはひとりひとり違います。受けた教育も違うし、個性も違います。これは、かえって音楽の解釈をより深いものにします。私は多くの人々の批評を受け入れますが、自分の考えを隠すことは絶対にしません。
(焦): あなたは今度のアジア公演(2007年)で、日本では何曲かの速いテンポの「超絶技巧練習曲」と技巧的な大曲を演奏し、台湾ではグウィニス・チェン(陳毓襄)との競演のコンサートで、遅いテンポの小曲ばかり演奏しました。どうしてこんなに違うプログラムにしたのですか?
(ポ): リストのテクニックの偉大なところは、絶えず発展し、進歩していたところにあります。彼は晩年になって、若い頃より上手く弾きました。実際、すべての偉大な巨匠は皆、歳月とともに成長し、絶えず更に高い境地に進みます。台湾での演奏会では、私は少し異なる高度な超絶技巧で、ある響きのコントロールをやってみたかったのです。私は響きの色彩を用いて音楽の中で語り、響きの変化を使って楽曲の奥に内在する生命を表現しました。ブラームスの「間奏曲」(Intermezzo,Op.118,No.2)とグラナドスの「スペイン舞曲」(Danzas Espanolas)では、何度も繰り返すモチーフとフレーズが出てきますが、すべて異なる色彩と響きでそれを描き出しました。この演奏は即興の趣でしたが、私は色彩と響きを即興で表現しただけです。
(焦): それで、やはりあなたの原則である自分を貫くことに戻ったのですね。
(ポ): あるとき、カバリェ(Montserrat Caballé,1933- )がコンサートの後で楽屋に私を訪ねてきて、こう言いました。「私はあなたのすべての録音を持っていて、飛行機の中で全部聴いて、とても気に入り、あなたの演奏をよく理解しています。それでも、このコンサートで、私はたくさんの新しい発想を聴き取りました。あなたはすでに先人が未踏の境地に達しています。私はあなたがそれを続けて、そこに留まり、絶対に変えることなく、絶対に妥協しないことを望んでいます。これにはとても大きな力と勇気が必要です!」。――その通りです。そのようなレベルを保つためには、大きな勇気と力が必要ですが、私は、それを目指して努力することができます。
(焦): あなたは若いときに有名になりましたが、現在、自分の仕事と名声をどのように考えていますか?
(ポ): 私に言えることは、若くして有名になることの利点は、私の名声を芸術への貢献に使うことができることにあり、それに尽きるということです。人生は戦いばかりで、私は永遠に自分の芸術のために奮戦しているでしょう。アメリカでは、唯一の重要なことはいかに売るかであり、芸術ではありません。バイロン・ジャニスは傑出したピアニストですが、ヴァン・クライバーンが第1回チャイコフスキーコンクールで勝利し、アメリカのアイドルになってから、たとえバイロン・ジャニスがヴァン・クライバーンよりはるかにうまく弾いても、彼は得意な曲目を希望通りに録音することはできず、レコード会社はヴァン・クライバーンが既に録音した曲を彼が録音することを望みませんでした。これは、芸術の大きな悲劇であり、大きな損失です。このような消費主義が、アメリカでは長年続いています。チャイコフスキーはかつて手紙の中で、あるアメリカの女流ピアニストがワイマールに来てリストに何回かのレッスンを受け、アメリカに帰るとリストの看板で学生を教え、金持ちになったと言っています。リストは一生の間にそんなに多くの金を稼いだことはなかったのですが! 20世紀は、天才がソ連や共産主義国家の状況のように、国家に売られるものではなく、欧米の状況のように、消費主義に売られるものになりました。1980年代、エージェントの中には私の演奏の価値と私が継承している楽派を知る人はひとりもなく、私のルックスと私の青春を売ろうとだけしました。私の台湾、韓国、日本の最初のコンサートは、一度の例外もなく、聴衆の中心は12歳から15歳の女の子でした。コンサートが終わると、彼女たちは私に会い、私の写真にサインを欲しがりました。初めてオーストラリアで演奏した後は、何とあの国のセックスシンボルのトップに列せられました。そのため、そのような地方では、私を受け入れる準備ができていないことを知り、非常に長い時間を経てようやく、再びこれらの国で演奏するようになりました。私のような人間は、私の芸術がうわべとだけのものではないと理解されれば、そこで演奏したいと思うのです。
(焦): あなたが有名になった当初から、ずっと慈善活動を熱心に続けていることを、私は知っています。長年、あなたが継続しているこの活動について、お話いただけますか?
(ポ): 私の家には、きわめて深く熱心な宗教的伝統がありました。私の父はキリスト教徒で、母はロシア正教徒だったので、私たちの観念では、喜んで慈善事業に貢献することが、大きな美徳だったのです。私は若いときに、自分が幸運であることを知りました。つまり、良い先生に巡り会い、私の才能が認められ、援助を受けることができたということです。ですから、私はもっとお返しをしなければならないのです。演奏によるお返しだけではなく、私の名前で何か良い事をする必要があります。私が得たものは、私が与えたものよりはるかに多いと言うことができます。私は1981年にメキシコの震災のために開いたコンサートを永遠に忘れることができません。たくさんの子どもたちが父母を無くしましたが、私のコンサートで募ったお金で彼等のために玩具や楽器を買うことができ、彼らに教育と安らぎを与えることができました。四半世紀が経ち、私が台湾で聴覚障害と視覚障害の児童のために、慈善コンサートを開いたとき、何人かの子供達がテディベアとおもちゃの犬を持って舞台に上がり、私にプレゼントしてくれました。この時、私はメキシコの子どもたちを思い出し、彼らのプレゼントにとても感動しました。これは、私がステージの上で得られる最大の喜びです。
(焦): あなたは自分の録音や公演には細心の注意を払っていますが、金銭にはこだわっいませんね。
(ポ): 私の家庭は、以前はとても豊かだったので、お金は私にとってありがたがるものではありませんでした。私は、金銭に夢中になることは全くありませんでしたし、アメリカとヨーロッパの消費主義に惹かれたり、影響を受けたりすることもありませんでした。極端に言えば、私は金銭に対しては「ノー」と言います。もし私が望んでいれば、今より多くのお金を稼げましたが、そのようにはしませんでした。これも、私にとって幸運だったと思います。というのは、私が財産のために道を誤ることなく、私の家庭に尊厳をもたらしたことに大きな喜びを感じるからです。私の母方の祖父は「第二次大戦」以後、働く権利を剥奪されましたが、これは彼にとっては死刑の判決のようなものでしたが…。彼がその後、何をしたかわかりますか? 彼は道路掃除夫となり、非常に威厳をもって道路掃除夫を務めました。「仕事は仕事」、「仕事がないと、自分の値打ちが下がる」と祖父は言いました。彼は以前とても富裕でしたが、道路掃除夫になることも厭わず、誇りを持ってこの仕事を務めました。私の家庭の境遇から、世の中は知識と尊厳と愛があれば、他人が去ることはないことを私は知りました。そして私はこれを永遠に記憶に留めています。
(焦): あなたは現在まだ、多くのコンサートや他のピアニストの演奏を聴きますか? 余暇は何をしていますか?
(ポ): 私には、たくさんの録音やコンサートを聴く時間がありません。時間があるときは、声楽や民族音楽(folk music)、あるいは好きなジャズを主に聴きます。この何年か、タンゴとスペイン語を勉強しており、スペイン及びラテン音楽への理解を深めました。
(焦): 今、新しい計画や研究中の作品はありますか?
(ポ): 今年中にラフマニノフの「ピアノコンチェルト第2番」、「ピアノソナタ第2番」とプロコフィエフの「ピアノコンチェルト第3番」等の作品を録音したいと思っています。アルベニスの「イベリア」全曲も、演奏したいと思っていますが、自分の時間を考えると、この作品を私が満足できる水準に仕上げるには5年以上の時間がかかると思います。ですから、この計画は延期するしかありませんが、グラナドスの「スペイン舞曲」は既にステージで演奏をしたことがあり、「ゴヤの絵」も演奏したことがあります。ピアソラ(Astor Piazzola,1921-1992)の作品も大変好きです。現在多くの人々がラテン音楽を演奏しますが、ただ感動的な旋律に熱中するだけで、音楽の中身は全く理解していません。タンゴのリズム、速度、ダンスのスタイルと歴史的背景のひとつひとつが全て、表現意義と感情概念を持っています。このようなダンスの要素の意味を注意深く掘り下げて研究しさえすれば、ピアソラのいかなる作品も、そのリズムとメロディーの配列を分析して音楽に内在する意味と物語に至ることができます。有意義なのに堅苦しいところがない、スペイン・ラテン音楽を、もっと演奏すべきだと思います。私は1978年にカサグランデ国際コンクールに参加したときに、バルトークの「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」(Sonata for Two Pianos & Percussion)の楽譜を持ち帰りました。そのときから、この作品に夢中になり、今に至っています。この作品を演奏したいと思い、ずっと持ち願い続けています。Bad Wörishofenの「ポゴレリッチ音楽祭」(Ivo Pogorelich Festival)も2008年に再び開催し、私が1988年から国連の主席ユネスコ親善大使(Ambassador of Goodwill)を務めていることを記念しています。2009年にはワイマールで再び「ポゴレリッチピアノコンクール」を開催し、多くの優秀なピアニストを発掘したいと思います。
(焦): あなたは新しい世代の音楽家にどんな期待を持っていますか?
(ポ): 人生には限りがあり、短いので、知識を伝承することがとても大切だと思っています。私が一生をかけて学んだことを後世に伝え、この独特で歴史あるピアノ演奏テクニックが継承され続けることを望んでいます。現在、多くの人々が速く成功したいと思っています。多くの国々では、アイドルになることが流行っていて、自分に投資した元手をとることばかり考え、学習や進歩のことは考えません。しかし、「学び」は速成するものではなく、本当の成果を得るためには専念し、努力し続けることが必要です。私は、若い音楽家たちが、音楽を尊重し、芸術の前では謙虚に、手っ取り早い名声を追い求めないことを望みます。芸術家は広く深く学ぶことが必要ですが、永遠に自分の信念を持ち続けることも大切です。
2012-04-19(Thu)
上海の音楽評論家の友人、リ・イエンホワン(李厳歓)が、香港のラジオ局に保管されていたフー・ツォン(Fou Ts'ong)の1969年のモーツァルトの演奏がインターネットで聴けると知らせてくれました。
http:/programme.rthk.org.hk/channel/radio/programme.php?name=/city_hall_at_50&d=2012-03-10&p=5476&e=170947&m=episode
アナウンサーがいろいろ喋っていますが、14分16秒あたりからモーツァルトの「幻想曲」、ソナタK.457、K475が聴けます。
30代のフー・ツォンのエネルギッシュなモーツァルト、今の演奏とは一味違う魅力がいっぱいで、おもしろいです
たっぷりと間を取って濃厚に歌うフー・ツォン節は今も昔も変わりませんが、若々しい生命力にあふれたモーツァルト、素敵です
さて、4月も半ばを過ぎ、仕事も忙しいのですが、春だ~
と、遊んだりもしています

長野県茅野市の横谷温泉郷に行ってきました。
http:/www.tateshinachuoukougen.com/yokoyakyo.html
生まれ故郷の岡谷・諏訪地方は、まだ春浅く、桜のつぼみは固く、氷瀑群も残っていて、渓流沿いの露天風呂でのんびり過ごしました。

マイナスイオンをたっぷり浴びて、元気になったような



中央高速のサービス・エリアで見た富士山。

八ヶ岳。
横谷温泉から高遠に足を延ばしましたが・・・、桜はまだでした

観光バスは次々と到着して賑わっているのですが・・・

咲いていない桜の下でお弁当を食べるのは、何だかなぁ…ですね

こればかりは仕方がない。今年の春は、本当に遅い。この週末あたり、そろそろ満開になっているかしら
中央高速を走って、御殿場から箱根を越えて帰宅しようとしたら、御殿場や箱根の桜が満開






箱根・宮城野の桜です。日本人って、やっぱり桜が大好きなんですね。あぁ、待って、もう少し見させて、と急き立てられるような想いで、ついあちこちに見に行ってしまいます。でも、今年の桜も、そろそろおしまい。新緑の季節になりました。あちこちに出かけて食べたものは、次回ご紹介したいと思います
http:/programme.rthk.org.hk/channel/radio/programme.php?name=/city_hall_at_50&d=2012-03-10&p=5476&e=170947&m=episode
アナウンサーがいろいろ喋っていますが、14分16秒あたりからモーツァルトの「幻想曲」、ソナタK.457、K475が聴けます。
30代のフー・ツォンのエネルギッシュなモーツァルト、今の演奏とは一味違う魅力がいっぱいで、おもしろいです

たっぷりと間を取って濃厚に歌うフー・ツォン節は今も昔も変わりませんが、若々しい生命力にあふれたモーツァルト、素敵です

さて、4月も半ばを過ぎ、仕事も忙しいのですが、春だ~
と、遊んだりもしています

長野県茅野市の横谷温泉郷に行ってきました。
http:/www.tateshinachuoukougen.com/yokoyakyo.html
生まれ故郷の岡谷・諏訪地方は、まだ春浅く、桜のつぼみは固く、氷瀑群も残っていて、渓流沿いの露天風呂でのんびり過ごしました。

マイナスイオンをたっぷり浴びて、元気になったような




中央高速のサービス・エリアで見た富士山。

八ヶ岳。
横谷温泉から高遠に足を延ばしましたが・・・、桜はまだでした


観光バスは次々と到着して賑わっているのですが・・・

咲いていない桜の下でお弁当を食べるのは、何だかなぁ…ですね


こればかりは仕方がない。今年の春は、本当に遅い。この週末あたり、そろそろ満開になっているかしら

中央高速を走って、御殿場から箱根を越えて帰宅しようとしたら、御殿場や箱根の桜が満開







箱根・宮城野の桜です。日本人って、やっぱり桜が大好きなんですね。あぁ、待って、もう少し見させて、と急き立てられるような想いで、ついあちこちに見に行ってしまいます。でも、今年の桜も、そろそろおしまい。新緑の季節になりました。あちこちに出かけて食べたものは、次回ご紹介したいと思います
2012-04-14(Sat)
ピアノの鬼才、イーヴォ・ポゴレリチがもうすぐ来日します。私自身、彼の演奏を聴きたいか? と問われると、考えてしまうのですが (数年前にサントリーホールで聴いたときに、もう聴かないかも…と思ったのでした)、怖いもの見たさというか、やはり興味があり、惹かれるものがあるのは何故なのでしょうか。
私がフー・ツォンの評伝を上梓する過程で、いつも私を支え、励ましてくださった「転妻よしこさん」http:/www.geocities.jp/rc1981rc/は、、ポゴレリチのファン・サイトを運営していらっしゃるのですが、その彼女ですら、彼の演奏を聴くと体調が崩れて、しばらく立ち直れないと書いている・・・
http:/blog.goo.ne.jp/rc1981rc/e/7a3ff589270ee4fd8c283579adc7af96、
そんな彼の演奏って、いったい何なのだろう? と考えながら、中国のピアノ専門誌「鋼琴芸術」2011年11月号に掲載されたポゴレリチ特集の中の評論を、もう1本翻訳してみました。
波哥雷里奇
――音乐时空组合的奇人
ポゴレリチ ―― 音楽の時空の奇人
李长缨(李長纓)

十五年前,错过了波哥雷里奇在上海商城的独奏音乐会,据说那天他一身白色――白衬衫、白毛衣、白长裤,一副不羁神情,在幽灵般昏暗的灯光下留下了独特的肖邦之夜。2011年8月11日晚在上海夏季音乐节中,我却见到了一席燕尾服的波哥雷里奇,如此传统的着装,音乐却离经叛道,走向怪异和极端。喜欢他的人,可以佩服得五体投地;不喜欢他的人,别说根本无法听下去,乐句是断的,踏板是混沌的,还有那砸击式触键……这位前南斯拉夫钢琴家带给我们的是非常奇特的时空组合,他把音乐剁碎、重新划分时值,音响拉伸、变异,弹得像你根本不认识这首乐曲。他所有乐句都不走寻常路,你无法预盼下一个乐句的走向和落音,他不断地挑逗你的神经,我就是在这充满奇特的音响中经历了一次光怪陆离的异星球之旅。
15年前、ポゴレリチが上海商城で開いたリサイタルを聴きそびれたが、聞くところによると、この日の彼は全身真っ白、白のシャツ、白のセーター、白のズボンを身に纏い、自由奔放、不遜な表情を浮かべて演奏し、幽霊が出そうなほの暗い灯火の下で独特なショパンの一夜を繰り広げたようだ。2011年8月11日の夜、上海夏季音楽祭で、私は燕尾服という伝統的な服装のポゴレリチを見ることになったが、その音楽は正統に背を向け、奇妙な、そして極端な方向に向かっていた。彼を好む人は敬服してひれ伏すことも辞さないだろうが、彼を好まない人には全く理解できず、フレーズは細切れ、ペダリングは濁り、叩きつけるように打鍵していると感じられたことだろう。この元ユーゴスラビアのピアニストは我々にきわめて奇異な時空をもたらした。彼は音楽をバラバラにし、音符の長さを新たに構築し、音の響きを引き伸し、変形させ、全く知らない曲のように演奏した。彼はどのフレーズでも普通の道を歩まないので、次のフレーズがどのように終わるのか全く予想できず、絶えず神経をいら立たされ、奇異な音が充満する中で、私は初めて奇怪な異星への旅を経験した。
肖邦《降b小调第二奏鸣曲》的“引子”,波哥雷里奇便甩出了一个音符时长比谱子上长几倍的降D音,正当你不知所措时,他突然以极其轻声细微的C音解决,随之,狂风暴雨般的主题倾泻而出,你不得不承认这种大幅度的对比所造成的戏剧张力、从紧张走向释然满足的情感体验。慢乐段是最考验我们耐心的段落了,他又拉长了时值,和声的转换、力度的变化,奇招迭出,乐句间填满了不可遏制的欲望。第二乐章“谐谑曲”整体速度很慢,他的突发性乐句、重音的展现都不合规律。第三乐章“葬礼进行曲”灵感来自于贝多芬的c小调《葬礼奏鸣曲》,开篇的速度非常适中,但到后来,轻重缓急被打破,波哥开始出现一些莫名奇妙的乐句进行了。在这个“遥不可及的天堂”之后,末乐章是一个冷漠的托卡塔,后人称之为刮过墓地的暴风雪,掩埋一切生命的痕迹。波哥对这个乐章的处理倒在情理之中,在富有层次变化的踏板上,音符就像火热的岩浆奔流,时不时一两个小音符重音冒出,不断地前行,奔向死亡,终结生命。值得一提的是,波哥雷里奇在这部奏鸣曲中,左手勾勒出的线条远比右手更为繁复和震撼。
ショパンの《ピアノソナタ第2番変ロ短調》の「イントロ」で、ポゴレリチは一つの音符を引き伸ばして譜面より数倍長く変ニの音を弾き、まさに当惑させられたところで、突然きわめて弱いかすかなハの音を鳴らし、それとともに荒れ狂う嵐のようなテーマが流れ出て、大きな幅の対比がつくる劇的な緊張と、緊張に引き続いて何か満ち足りた感情が押し寄せて来る体験を私がしたことは、認めざるを得ない。ゆっくりした部分は我々の忍耐心が最も試された部分で、彼は音符を引き伸ばし、和声の転換と強弱の変化は奇抜、フレーズの間には抑えきれない欲望が充満していた。第二楽章の「スケルツォ」の全体の速度は遅く、突発的なフレーズ、アクセントの展開は全く出鱈目だった。第三楽章「葬送行進曲」は、ベートーベンのハ短調「葬送行進曲」にインスピレーションを得たもので、出だし部分の速度はまともだったが、進むにつれて強弱緩急はぶちこわされ、不可解なフレーズを弾き始めた。この「遥か遠い天国」の後の最終楽章は冷ややかなトッカータで、後世の人々はこれを、墓地に吹きすさぶ雪嵐、一切の生命の痕跡を覆い尽くすと讃えるかもしれない。ポゴレリチはこの楽章に対しては情理の中に沈み、複雑に変化するペダリングにより、音符は灼熱のマグマの奔流のように絶えず一つ二つの小さな音符にアクセントをつけて停まることなく進み、死に向かって走り、命を終えた。指摘しておきたいことは、このソナタの演奏中、ポゴレリチの左手がつくるメロディーラインは右手よりはるかに複雑で心を揺り動かしたということである。
如果说波哥雷里奇关于肖邦的演奏还算正常,能自圆其说,到了李斯特的《b小调奏鸣曲》,音符之间已分崩离析,他几乎瓦解了整个乐曲的结构。一般钢琴家用三十至三十五分钟来完成,我听过钢琴家陈宏宽的演奏是四十分钟,张力已经拉到了极限,没料到,这次波哥雷里奇演奏了将近四十八分钟,这多出来的八分钟是多么不可思议!
ポゴレリチのショパンの演奏を、それでも正常だと見なし、何とか認めるとしても、リストの《ロ短調ソナタ》となると、音符同志がバラバラに崩れ、楽曲全体の構成がほとんど壊れていた。普通のピアニストは30分から35分で弾き終わるが、私が以前聴いたピアニストの陳宏寛(Hung-Kuan Chen)の演奏は40分で、緊張は既に極限に達していたが、今回のポゴレリチの演奏は予想を遥かに上回り、48分近かった。この引き伸ばされた8分間は不可思議極まる!
波哥雷里奇试图在大幅度的强弱对比上造成声场动态的对比和听觉上的反差。强奏的时候,音响几乎要把文化广场的屋顶都掀翻,“波歌式”的咆哮所制造出来的一大片音响像核爆炸那样滚滚浓烟、咄咄逼人;弱奏的时候,就像羽毛在手中戏过,但似乎找不到他以前轻灵的富有弹性的珍珠式音色了。在速度上,我们就像坐过山车那样大起大落。在情感表达上,他的歇斯底里可以把你瞬间抛向高空,又骤然把你打入地狱。在这部生与死的奏鸣曲中,波哥雷里奇扩大了所有的细节,悲剧性主导动机几乎放慢了两倍,有时慢得让人感到窒息。浮士嘉主题逐渐变形为梅菲斯托和他的恋人玛格丽特的爱情主题,之后的圣咏音调、赋格段落,多种元素被波哥雷里奇重新组织、划分空间,像慢镜头那样上演着一幕幕极为个人的、怪诞的梦境。
ポゴレリチは大きな強弱の対比をつけることにより、ダイナミックな音響効果と聴覚上のコントラストを狙っていた。強音の演奏では、まるでホールの天井をひっくり返すようで、「ポゴレリチ式」の咆哮が生み出す音響が核爆発のように押し寄せ、激しく迫って来た。弱音の演奏では、羽毛を手の中で操るようだったが、彼の以前の軽やかで伸びやかで真珠のような音色には到達していなかった。速度の面では、ジェットコースターに乗っているかのように、急速に大きく変化した。情感の表現の面では、彼のヒステリーが、聴く人を瞬間的に高く放り上げたかと思うと、突然地獄に突き落とした。この生と死のソナタの中で、ポゴレリチは全ての細部を拡大し、悲劇的なメインモチーフを2倍の長さに引き伸ばしたので、あまりの遅さに息が苦しくなってしまった。ファウストの主題は次第に変形してメフィストと彼の恋人のマルガレーテの愛情のテーマになり、その後聖歌の旋律となりフーガで一段落した。多くの要素がポゴレリチにより新たに組み合わされ、空間は分割され、スローモーションのように一幕のきわめて個人的な奇怪な夢の世界が上演された。
可以说,这场音乐会,53岁的波哥雷里奇手指的精确性已不如从前,而在音乐上的变异和夸张却有过之而无不及。在我看来波哥雷里奇的音乐并不迷人,不循规蹈矩,这哈哈符合了现代人喜欢猎奇、表现自我、崇尚个性、欲望膨胀的心理趋向。他也确实开拓一条无人能走、无人能效仿的“波式”之路,但究竟能走多远?但凡真正有天赋的艺术家都是超时代的,也或许,波哥雷里奇真正的艺术价值需要时间来证明。
こうも言えるかもしれない。この音楽会で、53歳のボゴレリッチの指の正確さは以前には及ばず、音楽の変形と誇張はいっそう甚だしくなっていた。私の見るところでは、ポゴレリチの音楽は決して人々を魅了するものではなく、決まったやり方に従わない、悪ふざけのような現代人好みの猟奇趣味、自己表現、個性崇拝、欲望肥大の心理傾向にほかならない。彼は確実に誰にも歩めない、誰にも真似できない「ポゴレリチ式」の道を開拓したが、最終的に遠くまで歩むことが出来るのだろうか? しかし、真に天賦の才能がある芸術家はすべて時代を超越しているものなので、もしかしたら、ポゴレリチの真の芸術的価値が証明されるには時間が必要なのかもしれない。
(『钢琴艺术(鋼琴芸術)』2011.11)
私がフー・ツォンの評伝を上梓する過程で、いつも私を支え、励ましてくださった「転妻よしこさん」http:/www.geocities.jp/rc1981rc/は、、ポゴレリチのファン・サイトを運営していらっしゃるのですが、その彼女ですら、彼の演奏を聴くと体調が崩れて、しばらく立ち直れないと書いている・・・
http:/blog.goo.ne.jp/rc1981rc/e/7a3ff589270ee4fd8c283579adc7af96、
そんな彼の演奏って、いったい何なのだろう? と考えながら、中国のピアノ専門誌「鋼琴芸術」2011年11月号に掲載されたポゴレリチ特集の中の評論を、もう1本翻訳してみました。
波哥雷里奇
――音乐时空组合的奇人
ポゴレリチ ―― 音楽の時空の奇人
李长缨(李長纓)

十五年前,错过了波哥雷里奇在上海商城的独奏音乐会,据说那天他一身白色――白衬衫、白毛衣、白长裤,一副不羁神情,在幽灵般昏暗的灯光下留下了独特的肖邦之夜。2011年8月11日晚在上海夏季音乐节中,我却见到了一席燕尾服的波哥雷里奇,如此传统的着装,音乐却离经叛道,走向怪异和极端。喜欢他的人,可以佩服得五体投地;不喜欢他的人,别说根本无法听下去,乐句是断的,踏板是混沌的,还有那砸击式触键……这位前南斯拉夫钢琴家带给我们的是非常奇特的时空组合,他把音乐剁碎、重新划分时值,音响拉伸、变异,弹得像你根本不认识这首乐曲。他所有乐句都不走寻常路,你无法预盼下一个乐句的走向和落音,他不断地挑逗你的神经,我就是在这充满奇特的音响中经历了一次光怪陆离的异星球之旅。
15年前、ポゴレリチが上海商城で開いたリサイタルを聴きそびれたが、聞くところによると、この日の彼は全身真っ白、白のシャツ、白のセーター、白のズボンを身に纏い、自由奔放、不遜な表情を浮かべて演奏し、幽霊が出そうなほの暗い灯火の下で独特なショパンの一夜を繰り広げたようだ。2011年8月11日の夜、上海夏季音楽祭で、私は燕尾服という伝統的な服装のポゴレリチを見ることになったが、その音楽は正統に背を向け、奇妙な、そして極端な方向に向かっていた。彼を好む人は敬服してひれ伏すことも辞さないだろうが、彼を好まない人には全く理解できず、フレーズは細切れ、ペダリングは濁り、叩きつけるように打鍵していると感じられたことだろう。この元ユーゴスラビアのピアニストは我々にきわめて奇異な時空をもたらした。彼は音楽をバラバラにし、音符の長さを新たに構築し、音の響きを引き伸し、変形させ、全く知らない曲のように演奏した。彼はどのフレーズでも普通の道を歩まないので、次のフレーズがどのように終わるのか全く予想できず、絶えず神経をいら立たされ、奇異な音が充満する中で、私は初めて奇怪な異星への旅を経験した。
肖邦《降b小调第二奏鸣曲》的“引子”,波哥雷里奇便甩出了一个音符时长比谱子上长几倍的降D音,正当你不知所措时,他突然以极其轻声细微的C音解决,随之,狂风暴雨般的主题倾泻而出,你不得不承认这种大幅度的对比所造成的戏剧张力、从紧张走向释然满足的情感体验。慢乐段是最考验我们耐心的段落了,他又拉长了时值,和声的转换、力度的变化,奇招迭出,乐句间填满了不可遏制的欲望。第二乐章“谐谑曲”整体速度很慢,他的突发性乐句、重音的展现都不合规律。第三乐章“葬礼进行曲”灵感来自于贝多芬的c小调《葬礼奏鸣曲》,开篇的速度非常适中,但到后来,轻重缓急被打破,波哥开始出现一些莫名奇妙的乐句进行了。在这个“遥不可及的天堂”之后,末乐章是一个冷漠的托卡塔,后人称之为刮过墓地的暴风雪,掩埋一切生命的痕迹。波哥对这个乐章的处理倒在情理之中,在富有层次变化的踏板上,音符就像火热的岩浆奔流,时不时一两个小音符重音冒出,不断地前行,奔向死亡,终结生命。值得一提的是,波哥雷里奇在这部奏鸣曲中,左手勾勒出的线条远比右手更为繁复和震撼。
ショパンの《ピアノソナタ第2番変ロ短調》の「イントロ」で、ポゴレリチは一つの音符を引き伸ばして譜面より数倍長く変ニの音を弾き、まさに当惑させられたところで、突然きわめて弱いかすかなハの音を鳴らし、それとともに荒れ狂う嵐のようなテーマが流れ出て、大きな幅の対比がつくる劇的な緊張と、緊張に引き続いて何か満ち足りた感情が押し寄せて来る体験を私がしたことは、認めざるを得ない。ゆっくりした部分は我々の忍耐心が最も試された部分で、彼は音符を引き伸ばし、和声の転換と強弱の変化は奇抜、フレーズの間には抑えきれない欲望が充満していた。第二楽章の「スケルツォ」の全体の速度は遅く、突発的なフレーズ、アクセントの展開は全く出鱈目だった。第三楽章「葬送行進曲」は、ベートーベンのハ短調「葬送行進曲」にインスピレーションを得たもので、出だし部分の速度はまともだったが、進むにつれて強弱緩急はぶちこわされ、不可解なフレーズを弾き始めた。この「遥か遠い天国」の後の最終楽章は冷ややかなトッカータで、後世の人々はこれを、墓地に吹きすさぶ雪嵐、一切の生命の痕跡を覆い尽くすと讃えるかもしれない。ポゴレリチはこの楽章に対しては情理の中に沈み、複雑に変化するペダリングにより、音符は灼熱のマグマの奔流のように絶えず一つ二つの小さな音符にアクセントをつけて停まることなく進み、死に向かって走り、命を終えた。指摘しておきたいことは、このソナタの演奏中、ポゴレリチの左手がつくるメロディーラインは右手よりはるかに複雑で心を揺り動かしたということである。
如果说波哥雷里奇关于肖邦的演奏还算正常,能自圆其说,到了李斯特的《b小调奏鸣曲》,音符之间已分崩离析,他几乎瓦解了整个乐曲的结构。一般钢琴家用三十至三十五分钟来完成,我听过钢琴家陈宏宽的演奏是四十分钟,张力已经拉到了极限,没料到,这次波哥雷里奇演奏了将近四十八分钟,这多出来的八分钟是多么不可思议!
ポゴレリチのショパンの演奏を、それでも正常だと見なし、何とか認めるとしても、リストの《ロ短調ソナタ》となると、音符同志がバラバラに崩れ、楽曲全体の構成がほとんど壊れていた。普通のピアニストは30分から35分で弾き終わるが、私が以前聴いたピアニストの陳宏寛(Hung-Kuan Chen)の演奏は40分で、緊張は既に極限に達していたが、今回のポゴレリチの演奏は予想を遥かに上回り、48分近かった。この引き伸ばされた8分間は不可思議極まる!
波哥雷里奇试图在大幅度的强弱对比上造成声场动态的对比和听觉上的反差。强奏的时候,音响几乎要把文化广场的屋顶都掀翻,“波歌式”的咆哮所制造出来的一大片音响像核爆炸那样滚滚浓烟、咄咄逼人;弱奏的时候,就像羽毛在手中戏过,但似乎找不到他以前轻灵的富有弹性的珍珠式音色了。在速度上,我们就像坐过山车那样大起大落。在情感表达上,他的歇斯底里可以把你瞬间抛向高空,又骤然把你打入地狱。在这部生与死的奏鸣曲中,波哥雷里奇扩大了所有的细节,悲剧性主导动机几乎放慢了两倍,有时慢得让人感到窒息。浮士嘉主题逐渐变形为梅菲斯托和他的恋人玛格丽特的爱情主题,之后的圣咏音调、赋格段落,多种元素被波哥雷里奇重新组织、划分空间,像慢镜头那样上演着一幕幕极为个人的、怪诞的梦境。
ポゴレリチは大きな強弱の対比をつけることにより、ダイナミックな音響効果と聴覚上のコントラストを狙っていた。強音の演奏では、まるでホールの天井をひっくり返すようで、「ポゴレリチ式」の咆哮が生み出す音響が核爆発のように押し寄せ、激しく迫って来た。弱音の演奏では、羽毛を手の中で操るようだったが、彼の以前の軽やかで伸びやかで真珠のような音色には到達していなかった。速度の面では、ジェットコースターに乗っているかのように、急速に大きく変化した。情感の表現の面では、彼のヒステリーが、聴く人を瞬間的に高く放り上げたかと思うと、突然地獄に突き落とした。この生と死のソナタの中で、ポゴレリチは全ての細部を拡大し、悲劇的なメインモチーフを2倍の長さに引き伸ばしたので、あまりの遅さに息が苦しくなってしまった。ファウストの主題は次第に変形してメフィストと彼の恋人のマルガレーテの愛情のテーマになり、その後聖歌の旋律となりフーガで一段落した。多くの要素がポゴレリチにより新たに組み合わされ、空間は分割され、スローモーションのように一幕のきわめて個人的な奇怪な夢の世界が上演された。
可以说,这场音乐会,53岁的波哥雷里奇手指的精确性已不如从前,而在音乐上的变异和夸张却有过之而无不及。在我看来波哥雷里奇的音乐并不迷人,不循规蹈矩,这哈哈符合了现代人喜欢猎奇、表现自我、崇尚个性、欲望膨胀的心理趋向。他也确实开拓一条无人能走、无人能效仿的“波式”之路,但究竟能走多远?但凡真正有天赋的艺术家都是超时代的,也或许,波哥雷里奇真正的艺术价值需要时间来证明。
こうも言えるかもしれない。この音楽会で、53歳のボゴレリッチの指の正確さは以前には及ばず、音楽の変形と誇張はいっそう甚だしくなっていた。私の見るところでは、ポゴレリチの音楽は決して人々を魅了するものではなく、決まったやり方に従わない、悪ふざけのような現代人好みの猟奇趣味、自己表現、個性崇拝、欲望肥大の心理傾向にほかならない。彼は確実に誰にも歩めない、誰にも真似できない「ポゴレリチ式」の道を開拓したが、最終的に遠くまで歩むことが出来るのだろうか? しかし、真に天賦の才能がある芸術家はすべて時代を超越しているものなので、もしかしたら、ポゴレリチの真の芸術的価値が証明されるには時間が必要なのかもしれない。
(『钢琴艺术(鋼琴芸術)』2011.11)
2012-04-13(Fri)
桜が満開
一昨日の雨と風にもめげず、花吹雪を散らしながら美しく咲いています




平塚・金目川沿いの桜。

ツバメも巣作りを始めました

二宮・吾妻山公園では、満開の桜と海、富士山が楽しめます。


ダイヤモンド富士には、まだちょっと早かったようです。

さて、先週から今週にかけて仕事や私事でいろいろ忙しかったのですが、幾つかご紹介します。
まず、息子の中学・高校・大学時代の大切な友人、奥田曉仁さんのピアノリサイタルが、先週の土曜日に開催され、裏方のお手伝いをさせていただきました。
奥田曉仁さんは、慶應義塾湘南藤沢中・高等部を経て慶応義塾大学総合政策学部在学中に渡欧。ベルリン芸術大学でクラウス・ヘルヴィッヒ氏に師事し、現在はチューリッヒ芸術大学大学院でホメロ・フランチェシュ氏に師事している新進気鋭のピアニストです。


息子も、アマチュアとしてはけっこう頑張ってピアノを習っていたのですが、奥田暁仁さんは別格。小さい頃から、国内外のコンクールで活躍し、ピアニストへの道を選びました。私も息子も、彼の成長を見守り、刺激を受けながら、多くのことを学ばせてもらいました。
今回のリサイタルでは、持ち前の清潔で瑞々しい音楽に、深さや温かさが加わり、ヨーロッパでの研鑽の成果が感じられて、とても嬉しかったです。シューベルト「さすらい人幻想曲」、ラヴェル「夜のギャスパール」など、まさに絶品。今後の活躍が楽しみです。
素晴らしいコンサートの余韻に酔いしれながら、翌日の日曜日は、大磯在住の大津絵画家、河口邦山さんの作品を初台の画廊レストラン「ハーモニー」http:/www.harmony-chips.jp/に搬入。友人のMisakoさんも一緒に、お花見を楽しみながらのドライブ



作曲家の似顔絵なんかも…

5月12日までの展示なので、お近くの方はお立ち寄りいただければと思います。家庭的な雰囲気、リーズナブルなお値段で、美味しいお料理が食べられるレストランです。
それやこれや、遊びつつ仕事も頑張っています
近況報告でした。
一昨日の雨と風にもめげず、花吹雪を散らしながら美しく咲いています




平塚・金目川沿いの桜。

ツバメも巣作りを始めました


二宮・吾妻山公園では、満開の桜と海、富士山が楽しめます。


ダイヤモンド富士には、まだちょっと早かったようです。

さて、先週から今週にかけて仕事や私事でいろいろ忙しかったのですが、幾つかご紹介します。
まず、息子の中学・高校・大学時代の大切な友人、奥田曉仁さんのピアノリサイタルが、先週の土曜日に開催され、裏方のお手伝いをさせていただきました。
奥田曉仁さんは、慶應義塾湘南藤沢中・高等部を経て慶応義塾大学総合政策学部在学中に渡欧。ベルリン芸術大学でクラウス・ヘルヴィッヒ氏に師事し、現在はチューリッヒ芸術大学大学院でホメロ・フランチェシュ氏に師事している新進気鋭のピアニストです。


息子も、アマチュアとしてはけっこう頑張ってピアノを習っていたのですが、奥田暁仁さんは別格。小さい頃から、国内外のコンクールで活躍し、ピアニストへの道を選びました。私も息子も、彼の成長を見守り、刺激を受けながら、多くのことを学ばせてもらいました。
今回のリサイタルでは、持ち前の清潔で瑞々しい音楽に、深さや温かさが加わり、ヨーロッパでの研鑽の成果が感じられて、とても嬉しかったです。シューベルト「さすらい人幻想曲」、ラヴェル「夜のギャスパール」など、まさに絶品。今後の活躍が楽しみです。
素晴らしいコンサートの余韻に酔いしれながら、翌日の日曜日は、大磯在住の大津絵画家、河口邦山さんの作品を初台の画廊レストラン「ハーモニー」http:/www.harmony-chips.jp/に搬入。友人のMisakoさんも一緒に、お花見を楽しみながらのドライブ




作曲家の似顔絵なんかも…


5月12日までの展示なので、お近くの方はお立ち寄りいただければと思います。家庭的な雰囲気、リーズナブルなお値段で、美味しいお料理が食べられるレストランです。
それやこれや、遊びつつ仕事も頑張っています

近況報告でした。






